ふたりがみるせかい









「源一郎は異国の地を踏んだことがあるのだよね」

 夏の名残も過ぎ去り、秋風が涼やかに吹き、花々が美しく情感を湛え咲き誇る九月の初め。もう少しで重陽の節句を迎えるそんな頃。
 福地は手土産の横浜で購入した洋菓子の詰め合わせを抱えて、九段坂の木戸の家を訪ねた。理由などは然してなく、強いて云うならば、今太政官を騒がせている遣欧使節団の話をしたかったのと木戸の顔が見たかっただけである。
 細君に案内されて入った部屋でその人は夕涼みをしていた。簡素だが質の良さげな着流しと羽織を纏った木戸は、縁側で障子に背をもたせかけ、透かし彫りの入った洒落た扇子をひらひらと優雅に舞わせている。もう夏はとうに過ぎたと云うのに未だ日中は強い日差しで地上を照らす太陽も、さすがに夕暮れ時ともなればその光を和らがせ、その鮮やかな色を惜しげなく優しく降り注いでくれるようで、そんな柔らかい落陽を全身に浴びて、木戸は福地に向かって、いらっしゃい、と緩く微笑んだ。
 そして、先刻の言葉をふと思いついたかのように僅かな逡巡を経て、声にしたのである。

「ええ、何度か。先年も伊藤君と共に米国へ渡りましたし・・・。幕府が倒れる前には欧羅巴にも」

 手土産の包みを脇へ置き、木戸の隣へ座り込む。木戸は何時もの柔和な笑みのまま、福地の返事を期待して大粒の瞳を何度か瞬かせた。
 その問いかけに瞼を伏せて、福地は過去に想いを馳せながら、ゆっくりとした口調で答えた。
 まだ徳川幕府が機能していた頃、巡った欧羅巴は楽しかった。蘇った映像は全てが鮮明で、追憶したものが決して良いことだけでは無くても、あの頃見た異国の全ては今でもはっきりと素晴らしいと云える。目新しいものばかりで感動することばかりでわくわくどきどきすることばかりで。これを見たなら攘夷だの何だの云う馬鹿な時勢の読めない奴らも目を覚ますだろうに、と何度思ったことか。
 じっと目を瞑って過去に見た異国の街並みを思い浮かべる福地の穏やかな表情に羨ましげな眼差しを向けて、木戸はふ、と笑う。

「異国はどんな風だった?」
「そうですね、一言に異国と行ってもたくさんの国々がありますからね。でも、綺麗でしたよ」
「きれい?」

 福地の頭の中に浮かんだ映像を共有したいと木戸は断髪したばかりのまだ落ち着かない髪を揺らして、顔を覗き込むように小首を傾げ、問いかける。その質問に福地はゆるりと瞼を持ち上げると眼前にある木戸の好奇心に満ちた瞳にくすりと笑いながら、呼び起こした記憶の欠片を確かめるように舌に乗せた。
 何気なく云った一言に木戸は疑問符を付加して、福地が云ったその言葉を口の中で転がす。興味津々に詳細を求めるように見つめられ福地はその言葉を繰り返して、説明のための科白を思案した。急に口ごもった福地を急かすように木戸は視線を注ぐ。福地は数秒、その処理能力の高い脳を回転させ考えていたが、丁度いい言葉が見当たらないのか、諦めたように口を開いた。

「そう、綺麗。そして・・・・・・ダメだ、俺の言葉じゃ上手く言い表せないな。やっぱり実際に見てみるのが一番ですよ」
「へえ、源一郎でも表せないものがあるのか」
「たくさんありますよ。例えば、この庭の美しさとか、」
「ん?」

 自分の中にくっきりと明瞭に残る思い出を言葉で描写することが出来ずに福地は匙を投げた。思わず苦笑いを零せば、木戸がくすくすと軽やかな笑い声を上げる。福地の力を認めているが故のほんの少しの落胆とこの男にも出来ないものがあったのかという意外性に対する驚きを含んだその音色に福地は反論するかのように唇を尖らせる。
 木戸はそんな福地のある種、子どもじみた響きを持つ声音に耳を傾け、濡れ羽色の瞳でじっと見つめた。福地は止まらない口を抑えず、思いついた言葉をそのまま吐き出していく。
 黄昏時の庭は深い藍色に包まれつつも僅かな太陽の明かりを跳ね返し、美しい色を見せている。そんな庭に視線を向け、それから一呼吸置いて、木戸のほうを見遣った。不思議そうに首を傾げる木戸の短い髪に手を伸ばして、柔らかいその感触を楽しむように指先に絡めながら、にっこりと普段の福地らしい笑い方、揶揄うような声で告げる。

「あなたの可愛さ、とかね」
「・・・・・・源一郎、冗談は止してくれないかな」

 人の悪い笑みを浮かべて、指先を髪に絡ませ頬に滑らせる福地に木戸は強い視線を送り、抗議の言葉を紡ぐ。 けれど、その頬は真っ赤で、その朱に染まった頬を撫ぜる指先を振り払わないところからみても、説得力のあるものとはとても思えなかった。
 淡い色の唇を尖らせながらも結局のところ、最後まで木戸は拒まない。それは木戸の自身でも厄介だと思っている性質のようなものだった。木戸は自分が好意を向けている相手から同じ感情を返されることを、たとえそれが羞恥に顔を赤くしてしまうような気障な科白であったとしても―――、突っ撥ねることが出来ないのだ。

「冗談じゃありませんよ」
「なら、余計に性質が悪いじゃないか」

 それを知っていて福地は笑う。実際に彼にとっては冗談などではなく、本音も多分に含んだ口説き文句だったのだから。
 そんな福地の全てを解っていての言葉に木戸は吐き捨てるように素直に感情を吐露した。真っ赤になった頬は未だ、元の色に戻る気配はない。黄昏の残陽もまたそれを助長させているようで、橙色の優しい光を浴びた木戸は夕日色に染まっていた。ついつい頬が緩み、笑みが浮かんでしまう。
 その笑みを見て木戸はこのままでは揶揄われるだけだと思ったのか、こほん、と小さな咳をして話を異国の話題へと戻した。

「わたしも、一度は異国へ行ってみたいと思っているんだよ。本当は二十歳の頃から洋行したいと望んではいるのだけどね、中々、上手くは行かなくて」

 話している内に太陽は沈んでゆく。木戸の声は何時しか、郷愁を帯びて静かなものになっていった。木戸が思い出すものもまた鮮明なのだろうか、と福地はその声を聞きながらふと考える。
 しみじみとほんの少し悔しそうな声音で紡がれてゆく科白は思い出に浸るようでいて、その先の未来を望んでいるようでもあった。
 木戸がずっと前から政府に対して洋行願いを出していることを福地は知っている。木戸自身、福地に話してくれたこともある。伊藤もまた教えてくれた。あの人も行きたかったんじゃないかなあ、という小さな呟きで。
 落ち着いた声とは反対に恋焦がれるような眼差しで異国を思う木戸の瞳は輝いていて、素直にこの人を異国へ連れて行ってやりたいと思った。
 この人はその瞳で異国のどんな姿を映すのだろうか。
 福地は一度目を瞑って、閉じていた瞼を持ち上げると露にした視界に木戸とその向こうに見える秋の情緒ある風景を映した。
 ゆらりゆらり、木戸の白い手に操られた綺麗な細工が施された扇子が薄暮の冷えた空気を室内へと招き入れていく。その手をふと止めて、木戸は福地の目を真っ直ぐに見据え、にっこりと背後に沈み行く夕映えに負けないくらい鮮やかな笑顔を作った。

「もし、行けたならば、一緒に行こうね。あ、でも、源一郎はエゲレス語が上手だから、わたしが足手纏いになるだけかな」

嫣然と笑む目の前の人に福地は何時もの得意げなそれではなく、酷く照れ臭そうな普段の彼には全くといって良いほど似合わない笑みを向けた。
 この人の隣で見る異国は一体、どんな風に見えるのだろうか。それは以前よりどれほど美しく鮮やかで素晴らしいものなのだろうか。木戸の肩の向こうに浮かぶ、先ほど想起したものよりももっときらきらと輝く欧羅巴の街並みに確かな予感を覚えながら、福地はそんなことを思い巡らせた。

「きっと楽しいものになると思いますよ。俺と、あなたなら」

 それは確固としたものではない、けれど何処かはっきりとした輪郭を保つ判然とした予感を秘めた言葉だった。 きっとこの人と共に見る異国は素晴らしいものになるだろうという福地の、自身としてはよく当たると自負している勘によるその言葉に木戸は目を細めて明るい笑い声を放つ。
 睫毛を震わせて笑う人に福地もまた彼らしい笑みを返した。秋風が遠くないふたりの未来を暗示するかのように優しく空気を揺らしていく。

 ふたりがアメリカ号に乗り横浜を出港し、太平洋を渡り、異国の地を踏むまで、後三ヶ月余り。そんな秋の半ば頃の話である。








福地君と木戸さん。岩倉使節団出発前、明治四年九月の初め頃。初めはCPじゃなかったのに、途中の会話を挿入したら何故か福地君が木戸さん口説いてた(笑)
木戸さんは好きな人の我儘は極力聞いてあげたいと思う人だと思うので、結構流されちゃうんじゃないだろうか。福地君とか青木とかには。
福地君は洞察力も鋭いからそういう部分解っちゃってて、だから率直に口説くのな。恥ずかしいくらいの気障な科白で。福地君なら云える!(根拠の無い自信)
木戸さんは実は恥ずかしがり屋だと可愛いです。自分で云うのは良いけど、云われると恥ずかしいっていう。ついでに天然だから殺し文句堂々と吐いちゃうといい。