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「酷い雨だな」 「ええ、このままだと明日まで降るのではないですか」 ざあざあと夏の名残である豪雨が地面を叩きつけるかのように激しく降り注いでいる。その音に来原は唇に持ってきた杯をふと止めて、視線を薄い障子へと投げた。湿気を含んだ空気が身体に纏わりつくように漂い、それを振り払うように酒を飲み干す。来原の呟きに向かい側で徳利を傾けていた桂は手に持ったそれを盆の上へ戻し、溜息交じりの声を返した。 「この雨じゃ道場まで帰るのは面倒だろう。今晩はここに泊まっていかないか」 「それではお言葉に甘えて」 障子の向こうの様相を推察した来原がそんな提案をする。桂はそんな来原に心内を気付かれないように普段通りの笑みを浮かべて、並々と満たされた杯の中身を煽った。 桂が来原に会うのは本当に久しぶりのことだった。藩命であちこち飛び回っている来原に常に江戸にいる桂は彼が江戸に滞在している僅かな間しか会うことは出来ない。だからこうして酒を酌み交わすことも久方振りのことで誘われた時、内心、高鳴る鼓動を抑えられなかった。二つ返事で承知してしまったのもその所為だ。本当は桂とて決して暇な身ではなく、むしろ最近はあちこちに剣術指南に出向いている為忙しいのだが、わざわざ藩邸に用事があると嘘まで吐いて、道場を出てきた。 先ほど来原に泊まっていかないかと問われた時には控えめに返答したが、本当は最初から藩邸に泊まる腹積もりであったのだ。そうでなければ、塾頭である桂が勝手に無断外泊など他の門下生に示しが付かない。 「・・・・・・」 「良蔵さん?」 そんなに酒に強くは無い来原である。既に酔いが回り始めたようで、急に黙り込んだかと思うと、じいっと桂の顔を見つめた。まじまじと真っ黒な丸みを帯びた眼で凝視され、桂は意味が解らず疑問符を浮かべる。 桂の困惑した表情に来原はしみじみと、けれどからりとした彼特有の明るい声を放った。弟を対するような優しい慈愛の篭った視線と共にほんの少し淋しげな響きを持った音色が降ってくる。 それとほぼ同時にぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、桂は驚きに大粒の瞳を丸くして、ぱちぱちと瞬かせた。思わず手に持った空の杯を取り落としてしまう。 「いや、立派になったなあと思って。萩に居た頃とは見違えるようだぞ。ついに小五郎も大人になっちゃったってことなのかな。・・・・・・俺、ちょっと淋しいかも」 「止めてくださいよ、そのついこの間までわたしが子どもだったみたいな云い方」 「子どもだったよ、おまえは」 畳の上を転がっていく杯を慌てて拾い、桂は真面目な表情で来原の言葉を掻き消すように唇を尖らせ、反論をした。弟のように可愛がってくれる来原の好意による科白は率直に嬉しいと思えるけれど、こんな風に云われると一種の気恥ずかしさが伴ってしまって、素直に受け取ることが出来ない。 そんな複雑な心境を抱える桂を来原は愛惜しげに眼を細めて見つめ、頭に置いた手を動かす。肌に触れる無骨な手に一瞬身を竦めたが、それを振り払えずに静かに桂は来原の言葉を聴いた。 心に染み渡るように響いていく来原の優しい声。年長者からの幼子を見守るような眼差し。労わるように触れてくる指先。 心地好い、と思った。何故こんなにもこの人の傍は居心地が好いのだろう。彼のくれる言葉は視線は体温は、桂の知らない内に空いていた心の隙間を埋めてくれる。 家族に接するように優しく扱ってくれる。大きなその手のひらで心で微笑みで包み込んでくれる。それだけでどうしてこんなにも泣きたくなるのか。胸が詰まって息が苦しい。咽喉が刺すように痛んだ。 次々に家族達に先立たれ、ぽつんとひとり取り残されていく恐怖。最後の庇護者であった義兄も亡くなり、本当の意味で桂は守ってくれる家族を失った。今度は自分が妹を甥っ子達を守っていかなくてはならない。もう、書生の身では居られない。強迫観念のような想い。何時の間にか凝り固まって心の中に蟠ったそれを彼は徐々に溶かしていってくれる。 彼の前でなら子どもに戻れる。頭を撫でる大きな手のひらがあれば、それだけで自分を曝け出せる。 「良蔵さん」 手を伸ばせばすぐそこにある身体に縋り付いて泣いてしまいたいとさえ思えて、来原に会った途端にこうまで弱く脆くなってしまった心に桂自身、驚きを隠せなかった。 これもきっと酒の所為なのだろう。桂もまたそこまで酒に強い訳でも無いのだ。それに今まで気付かなかったけれど、泣き上戸なのかも知れなかった。 来原のあたたかい笑みに子ども扱いをされることの喜びを感じた。その想いのままに小さく何かを確かめるように刻むように桂はゆっくりと彼の名前を紡いだ。愛惜しげに唇を動かす桂の顔を覗き込んだ来原は桂の言葉を促すように首を傾げる。 「何だ?」 「手、退けて貰えませんか」 「あ、ああ悪かったな。さっき大人だって云ったばっかりなのに。やっぱり俺にとっての小五郎は弟みたいなもんだってことかな」 自分が云ったことなのに慌てて離れてゆく手を名残惜しく思う。反対の手で杯を弄びながら苦笑いを含ませる来原に桂は感情を押し隠してわざと明るい笑みを浮かべた。 本当に弟になれたならいいのに、彼を兄だと呼べたならいいのに。こうやって弟分として可愛がって貰える、それだけで充分なはずなのに、心は素直で貪欲だ。何処まで求めれば気が済むのだろう。欲張りな自分が心底厭わしい。本当にこうして優しい彼らしい微笑みを向けて貰えるだけで満足なはずなのに。満たされているはずなのに。 「良蔵さんの弟なら、わたし、喜んでなりますよ」 「ああ俺もお前なら大歓迎だ」 冗談を云うみたいな声音を一生懸命作り出して告げた言葉は桂の本心でずっとずっと胸の中に秘めていた願いで、だからこそこんな風に口に出したくなど無かったけれど、それでもやはりそういう積年の想いは、その感情を大切にしたいという桂に合わせるかのように穏やかで柔らかな彼本来の優しさが滲み出た音色になった。 来原はそんな桂の深い気持ちなど知らずにあっけらかんとした表情で桂が遠い昔から切望していた科白をあっさりと放つ。ふいに頬がかっと熱くなって、それを隠したくて、顔を背けて視線を落とした。 俯いた顔を覗き込まれたらそれこそ終わりだ。何故、こんなにも顔が熱いのか胸が落ち着かないのか心臓がどきどきと高鳴っているのか、そんなこと今混乱の渦中にいる桂に解るはずもない。頭がぐちゃぐちゃでぐるぐるで、不意打ちの嬉しすぎる言葉を受け止めきれない心はただただ頬を真っ赤に染めるばかり。ぎゅっと握り締めた手のひらに理由の解らない汗が滲んだ。 恥ずかしくて恥ずかしくて。顔を上げることも声を発してその場を取り繕うことも出来ずに項垂れる。来原はそんな桂の変化に戸惑ったのか、杯を盆の上に置いて、桂へと手を伸ばした。 「どうかしたのか?」 その手がくしゃりと総髪に結わえられた髪へ触れる。瞬間、びくん、と動揺に肩が小刻みに震えた。お願いだから顔を覗き込まないで、気付かないで。切に祈るように心の中で唱える。 この想いを曝け出すにはまだ自分のことを知らな過ぎていて、けれど衝動的な感情を抑えられるほどに大人にもなれていない桂は困惑するだけで来原の手を払うことも言葉で誤魔化すことも出来ずに、ぐっと唇を噛み締めることしか出来ない。どうしたらいいのだろう、ああどうしたら。彼に他意は無かったはずだ。こんな反応を返されて、当惑しているに違いない。 でも、桂だって自分がこんなになってしまうだなんて予測していなかったし、それまでの人生でもこんな風に心臓がばくばくと煩く鳴り響き、頬が熱くて、胸がぐちゃぐちゃになったことなんてないのだ。 だから対処法なんてさっぱり解らなかった。ただ、時間稼ぎでもするかのように深く首を項垂れさせ、俯き続けるだけだ。 来原はそんな桂のことを揺れる瞳で見つめていたが、焦れてきたのか顎を掴むと顔を持ち上げさせた。唐突な行動に桂の眼が大きく見開かれる。 恐怖と羞恥と幸福感。様々なものが綯い交ぜになった感情は桂の真っ黒な瞳を涙に潤ませていた。それを見て、来原は純粋に驚き、思わず顎を捕らえていた指先を盛り上がった目許へと押し当てた。温い液体が無骨な節張った人差し指を伝う。来原の眼はその滴が指の間を通り抜け、滴り、着物に染み入ったところでようやく頭の中のごちゃごちゃが身体に現れ、見開かれた。 「小五郎・・・?」 躊躇いがちな困惑した声が降ってくる。その声音に来原の前で涙まで流してしまった事実に呆然としていた桂ははっと我を取り戻した。ぎゅっと咄嗟に涙を拭う。桂の預かり知らぬ内に溢れ出てしまいそうな滴は心から湧き出てくる熱い激情のようで、ともすれば震える唇が自分でさえ把握出来ていない想いを全て吐き出してしまいそうで恐怖に身が竦んだ。 すぐに俯かせてしまった顔はもうきっと自分の意思で持ち上げる他、無いのだろう。けれど、そんな勇気を持っているほど、桂は果敢な男では無かった。 誰か来ればいいのに、と願っても、こんな夜更けに訪れる客など居るはずもない。どうしたらこの状況を打破出来るのだろうか、神でも仏でもいい、本当に存在するならば救いを与えてくれと思う。その場をどうしたら収められるのか、そればかりが頭を巡ってぐるぐるとかき回してゆく。ぐちゃぐちゃになった思考は一向に纏まる気配を見せなかった。 「・・・っ」 そんな時だった。耳を劈くような音が辺りに轟き、驚きと恐怖に脳内が真っ白になった。ぎゅっと目を瞑って身体を縮こまらせる。両の手を固く握り締めぐっと唇を噛み締めた。 近くに落雷したようだった。それまでも遠くで鳴り響いていたけれど、こんな近くまでやってくるとは思っていなかった。ただでさえばくばくと煩かった心臓が今度は恐怖に激しく鼓動を響かせる。 「お前ってこんなに怖がりだったっけ? 雷に怯えるなんて」 「違います。ちょっと、吃驚しただけですよ、心配要りません」 揶揄うように問われ、咄嗟に顔を上げて抗議をする。あれだけ悩んでいた顔を上げるという行為も勢いに乗ってしまえば呆気無いものだった。キッと来原を睨みつけ、畳に転がっていた杯を盆の上に乗せる。けれど、その瞳は未だ潤んだままで、普段ならば眼力だけ相手を威圧することが出来る桂の視線もまったく威力を持たなかった。 何とか雰囲気が持ち直せたことに安堵の吐息を零す。上目遣いに確かめた来原の表情は普段のもので桂はもう一度、ホッと吐息を漏らした。 「じゃあこの手は何なんだ?」 薄い障子を突き破って届くのではないだろうかという有り得ない考えまで浮かんでしまうほど、激しい音を立てる雷にさっき否定したばかりなのに、思わず肩を震わせ、瞼を閉じてしまう。瞬間、つい来原のほうへ伸ばし着物の袂を握ってしまった手を掴まれ、逃れようの無いことを悟る。格好が悪いから今まで一生懸命隠してきたのに。今日だって落雷するなんて予想外だったのだ。 女子ならまだしもこの歳になった男が雷を怖がるなんてみっともなさすぎる。さっきとはまた違う気恥ずかしさが募る。頬が再び真っ赤に染まっていくのが解った。 押し黙って俯く桂を来原は決して笑わずにただ子どもを見るかのように穏やかな眼差しで見つめ、手の内にある手首を強い力で引っ張る。倒れ込む決して小さくは無い身体を受け止めて、片腕を回す。もう片方の手は結われた髪に触れるように頭に置かれた。まるで幼子にするように優しく髪を撫ぜる。 「ほら、こうしとけば怖くないだろう」 突然のことに驚きに目を見開くことしか出来なかった桂は来原の為すがままだった。だが、しばらくして事態を把握すると雷の所為では無く恐慌状態に陥った。腰に巻きつくように回された腕や額に触れる無骨な手のひら、耳元にかかる温かい息に心臓がどきどきと高鳴る。 胸がざわざわと落ち着かなくて、確かに雷を怖くは無くなったけれど、それよりも怖いことが桂には出来てしまった。この心臓の音を彼に聞かれてしまったら。それが恐ろしくて仕方が無いのだ。 だから素直にその厚い胸に身体を預けることは出来なくて、本当はこうして触れて貰うことは酷く嬉しいはずなのに、それだけじゃないもやもやとした感情に翻弄されてしまう。 雷が鳴り響く。その度にやはりびくりと震えてしまうのを来原は優しく宥めてくれる。触れてくる荒れた指先が愛しくて、子ども扱いはされたくないのに、子ども扱いされることが嬉しくて堪らない。幼いときに彼にこうして貰えたならば、雷を怖いなんて思うことも無かったかも知れない。そんなことまで思ってしまう。 子どもの頃は面倒をかけまい甘えまいと必死で、母親には妹が居て、姉には自らの子ども達が居て、雷を怖いと思う度に自室に引き篭もっては布団を頭から被って震えていた。武士の子なのだからそんな些細なことを怖がってはいけないという強迫観念もあった。怖いなんて口にしたら父親に叱られるかも知れないとも思っていた。 けれど、今ならば云える。怖いと心の中の思いをそのまま吐露しても、彼ならば笑わないし叱りもしない。きっと有りのままに受け止めてくれる。 「良蔵さん。怖い、怖いです」 「大丈夫だから。俺が雷が通り過ぎるまでこうしててやるから、な?」 色の失せた唇から吐き出される怯えた小さな声は、それでもちゃんと来原の耳に届いたようだった。回された腕に込められる力が強くなる。ぎゅうと背後から抱き締められて、心に訪れる安心感に泣きたくなった。 今、泣いたら、彼は流す涙を恐怖の為だと思ってくれるだろうか。誤魔化されてくれるだろうか。瞳に滲む涙はもう抑えようが無く、溢れ出して頬を伝う。瞼を伏せたら、真っ暗な視界に稲光が走った。 鼓膜を破るかのように轟く雷鳴。でももう怖くは無かった。背中越しに感じる鼓動。とくんとくんと規則正しく音を刻むそれに包まれて、他の音が聞こえなくなる。 遠く雷が豪雨と共に走り去っても、桂は来原の腕の中から離れようとはしなかった。来原もまたそんな桂の甘えを享受するかのようにその髪に指を絡ませ頭を撫でながら、抱き締め続けていたのだった。 |