まっさらなあしあと









 まっさらな雪が降ると、彼は笑顔を携えてやってくる。白に覆われたせかいにあしあとを残しながら。





 その日は朝からとても寒かった。登庁した際に「今日は冷えそうですね」と挨拶と共に誰もがそう口にしていた。だから雪が降り始めたことを認めたときも別段驚きはしなかった。ただその降り頻る雪の中、ぼうっと突っ立っている人物には驚いた。木戸だ。すぐに体調を崩す寒がりな彼がこんな雪空の日に外に出ていることは珍しいと思った。毛布に包まり、火鉢でも抱えているほうが似合いのように見える。
 木戸は大久保が見ている数分の間、そこから一歩も動かなかった。ただ降る雪を見つめている。風邪でも拗らせたら面倒だと思ったが、扉を叩く音とその向こうから現れた人影にそんな考えは十秒も経たぬ間に何処かへ消えた。視界には雪の白ではなく、書類の白が広がった。



 しばらくして、大久保はテキパキと作業を淀みなく進めていた指先を止めて、冷め切ったコーヒーに手を伸ばした。 香りの薄れた不味い液体を飲んでいると、ふと先程の木戸の姿が思い出され、背後の大きな西洋風のガラス窓を振り返った。
 その向こうにはまだ木戸がいた。コートも着ていない、いかにも寒そうな格好で一寸も変わらない場所に彼は立っていた。時計を確認してみるとあれから一時間近く経っている。さすがに心配になり、自分のフロックコートを掴んで、大久保は外へ出た。さくさくと大分積もった雪を踏みしめて、未だ綺麗なままの白へ足跡を残しながら、自室から見える中庭へと向かう。
 中庭は白一色に染まっていた。たくさんの雲が光を遮り、辺りは薄暗く灰色だったが、それはまだ踏み荒らされていないまっさらさだった。足跡は、ひとつも無かった。ぐるりと周囲を見回しても、あるのは自分一人分の足跡だけで、後はただ白い白い雪のせかいが広がるばかり。
 そんな誰もいない広い庭で木戸は一人、佇んでいる。大久保は何となく居心地が悪くなって、わざと雪を革靴で踏み付けて歩いた。木戸の雪に濡れた背中を目指して。

「木戸さん、」

 もう少し、というところで名前を呼んでみる。まったく反応が返ってこないので、今度は前よりも大きな声で呼んだ。それでも木戸は身動ぎひとつせず、雪像のように突っ立っている。
 嫌な感覚がした。予感、とでもいうような。曖昧だが確たるそれに大久保は従うように、木戸に近付くと身体の前へ回り込み、彼の視界を遮った。雪が積る肩を掴み、木戸の呆けたように何も映していない瞳を覗き込む。そしてもう一度、はっきりと木戸の名前を呼んだ。

「お、おくぼさん?」

 徐々に焦点の合っていく様を目の当たりにしながら、大久保は安堵の息を吐いた。木戸はぶるりと寒さに身体を震わせると不思議そうに大久保に視線を合わせる。

「どうして、ここに?」
「貴方に風邪を引かれては困ると思いましてね」

 小首を傾げて訊く木戸に大久保はさらりと返しながら、木戸の肩の雪を手早く払い、手に持ったフロックコートで厚みの無い肩を覆う。手を置いた肩からは温もりがまるで感じられなかった。一時間もこんな寒空の下、コートも着ずにいれば、身体が芯から冷え切るのは当然だ。コートの上から木戸の身体を少しでも暖かくなればと擦りながら、大久保は訝しげに問う。

「あなたこそ、どうしてここに?」
「・・・・・・何でも、無いのですよ。ただ、」
「ただ?」
「誰かに、呼ばれているような気がして」

 促すように目を見つめると木戸はほんの少し、視線を逸らせて、大久保から逃げるようにして呟いた。その言葉に大久保は眼差しを険しくして、木戸の顔を見る。自然と木戸の背を撫ぜる手が止まった。木戸はそんな大久保の顔色を窺いながら、それでもぽつりぽつりと言葉を落とす。

「ゆきが、雪が降ったら、いつも呼びに来てくれたのです。いつも、いつも」

 寒さに凍えた声で零す言葉を大久保は黙り込んで聞いていた。背中の手は止めたまま、ただ黙りこくって聞いていた。
 地面は真白い真白い雪で埋め尽くされている。天からもまっさらな新しい雪が降りてくる。せかいが、余りにも白すぎて、何かに惑わされてしまいそうだった。色の無い、何かに。

「帰りましょう。ここにいては、冷えるだけです」
「・・・・・・はい」

 コートの下に隠れている冷え切った手を取って、大久保は何時もの無表情を貼り付けたまま云った。ぎゅっと握り締められた手から大久保の温もりが木戸へと伝わる。木戸は大久保の顔を見上げると、ふっと表情を和らげて、頷いた。肩に引っ掛けただけのコートから大久保の好むきつい煙草の匂いがする。
 大久保はそのまま手を引いて、官舎に向かって歩き出した。その背中を追いかけるように、木戸もまた足を引き摺るようにして動かす。少し前に足を不自由にした木戸を気遣ってか、大久保の歩みは常よりも遅かった。ゆっくりとゆっくりと歩いていく二人の間に沈黙が降りる。

「私が、」

 そんな刹那の沈黙を破ったのは大久保だった。木戸は足許に下ろしていた視線を持ち上げると、大久保のスーツに覆われた背中を見つめる。

「今度からは、私が、呼びに来ます」

 何の感情も滲まない何時もの声。けれどそれはしっかりとした響きをしていた。確かな、ものだった。
 木戸はふわりと微笑んで、首を竦めて大久保のコートに真っ赤になった鼻を押し付けると、それからようやく返事をした。素直な気持ちを声に乗せて、酷く、嬉しそうに。

「・・・・・・はい」

 官舎までのまっさらな雪にはふたりぶんのあしあと。ゆっくりとゆっくりと残されたふたりぶんの。





 まっさらな雪が降ると、彼は何時もの無表情を浮かべてやってくる。白に覆われたせかいにあしあとを残しながら。








大久保さんと木戸さん。明治9年1月〜2月くらい。ハルちゃんが亡くなって、足を不自由にした頃の木戸さんと大久保さん。
優しい大久保さんとそれに甘える木戸さんがテーマでした。木戸さんはハルちゃんと高杉と一緒に雪遊びしたことを思い出してれば良いよ。
後は木戸さんに自分のコートをかけてあげる大久保さん。マフラーも巻いてあげたかったけど、展開的にダメだった。でも手を引いてあげるのは入れられて満足。
今年は初雪が今年最後の雪になることも多い地元でも雪が何度も積もったので、真っ白な雪景色が見られました。雪にあしあと、つけるのって楽しい!