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「Trick or treat?」 執務机の上に堆く山となっている書類の横に更に自分が持ってきた紙束を積み重ねながら、木戸は世間話をするかのように何気なく、その科白を放った。書類に落としていた目線を持ち上げ、茶目っ気たっぷりの笑みを形作ってみせる。唇が優美な弧を描き、黒塗りの瞳がゆっくりと眇められた。 その好奇心に溢れた表情に大久保はひとつ溜息を落として微かに微笑むと、机の一番上の抽斗を開けた。中から小さな包みを取り出し、親指と人差し指で抓んだそれを木戸の目の前で見せつけるように左右に揺らす。そして普段なら滅多にしない楽しそうな笑い方をして、からかうような声音で木戸に問い掛けた。 「お望みのものはこちらですか?」 「ええ。有難う御座います」 木戸は一瞬、口惜しそうに眉を顰め、けれどすぐに秀麗な相貌にいつもの笑みを貼り付け、差し出された紙包みを丁寧な所作で受け取った。 こんな異国の行事、覚えていないだろうと踏んでいたのにとんだ誤算だ。しかもこんな風に菓子まで用意されているなんて。大久保を出し抜いてやろうと思っていたのに逆にやられてしまった。 可愛らしい包装紙に飾られ、黄色いリボンが巻きつけられた異国の菓子を見つめ、若干の落胆とそれよりも些か多い幸福感を噛み締める。とりあえず、これは後で楽しみに食べようと思いながら、こんな行事など興味無さげな大久保が何故ここまで用意周到だったのか、浮かんだ疑問を素直に投げ付けた。 「どうして、お知りに?」 「伊藤君が昨日教えてくれまして。聞いた瞬間、あなたの顔が浮かんだのですよ。ですからこうしてあなた好みの菓子を用意しておいたのです」 伊藤の名が出た瞬間、木戸は僅かに目を見開いた。全てが伊藤に仕組まれたことだと気付いたのである。昨夜、木戸の家を訪れ、酒を交えながらさり気無く、伊藤は木戸に今日の記念日の話をしていった。欧州に伝わる子ども達の祭典の話を。 つまり、何もかも俊輔の目論み通りということか。木戸は心の奥で嘆息しつつ、それでも伊藤に対する不快感などは一切感じなかった。頭の回転が速く立ち回りの上手い後輩に逆に感心までしてしまう。と、同時に感謝の念も沸きあがった。こんな風に大久保と笑い合う機会をお膳立てしてくれたのだ、後で伊藤にも何かしてやらなければ。 恐らく、隣室で今日の首尾を窺っているであろう後輩に何をしてやろうか考えてから、木戸は大久保のほうを向いた。このことを教えるべきか秘しておくべきか。そう思い悩み、大久保の顔色を探りに逸らしていた視線を再び当てたのだが、案外早くすぐに答えは見つかった。 「あなたは甘い物を好まれるようでしたから」 それまで書類に這わせていた視線を木戸に向け、何も知らずに目を細めて笑う大久保に木戸は今一度、心内で溜息を吐いて、真実を伝えずにおくことを決めた。何も知らないなら知らないままでも構わないだろう。何時もの笑みよりももっと柔らかい笑い方で唇を綻ばせ、木戸は大久保に微笑みかけた。 「ええ、大好きです」 「それは良かった」 木戸の言葉に大久保は手に持った書類を机の上に置き、立ち上がった。机の前に立つ木戸の横に並び、その骨張った手を差し出す。意味が解らずに小首を傾げる木戸に大久保は先程の木戸のように悪戯を企む子どものような表情で拙い英語を紡ぎ出した。 「Trick or treat?」 「え?」 「お菓子と悪戯、どちらが宜しいですか?」 本当に理解出来なくて、きょとんと目を丸くして大久保を凝視する木戸に大久保は日本語訳を伝えた。そこでようやく大久保がさっき自分が訊ねたことと同じことをしているのだ、と気が付いた。大久保がこんな風に問うてくることなど木戸にとってはまったく予想外だったのだ。 いつもの大久保ならこんなこと絶対にしないはずだ。少なくとも木戸の中にある大久保はそうだった。でもそれはあくまで木戸が見た大久保がそういう行動をしないだけであって、今目の前にいる張本人にしたらそう驚きべきことでも無いのかも知れない。 互いにまだ知るべきところはたくさんあるのだから。 「お答えは?」 新しい大久保の一面を見た気がして、木戸はしばらく大久保の顔をまじまじと見つめていたが、大久保は痺れを切らしたらしく控えめに催促してきた。 そうだ、と慌ててお菓子を探すものの、そんなものそう普段持っているものでも無い。上着からズボンからポケット中を探し回って、最後に手を突っ込んだズボンの右のポケットの奥にキャンディがひとつあったのを発見した。指先に触れる包み紙の感触にほっと一息吐く。 そういえば、これも今朝俊輔に貰ったものだったな、と伊藤の策の細かさに舌を巻きながら、それを引っ張り出して、中身を確かめようと掴んだ手のひらを開く。大きな手のひらの中央にちょこんと乗っているオレンジ色の紙に包まれたキャンディ。それを素直に大久保に渡そうとしてから、数秒後、木戸は考えを改めた。 橙色の包み紙の右端を抓み、横に引っ張る。同じことをもう片方にも施せば、ころんと手のひらに透明に近い蜜柑色をしたキャンディが転がり出た。思ったよりも小さいそれを親指と人差し指で抓み上げると何をしているのか訝しげに眉を寄せて観察している大久保を真っ直ぐに見据える。 そしてふっと鮮やかに笑った。 キャンディを唇に当て、口に含む。足を一歩踏み出して、大久保の顎を捉え、左の手のひらで頬を包み込んだ。ほんの少し踵を持ち上げ背伸びして、色の失せた唇に触れる。突然の行動に目を見開く大久保の底無しの瞳を見返して、目だけで微笑んでから、静かに瞼を伏せた。 唇の渇いた感触とは正反対にじっとりと体温に溶けた甘い砂糖と香料の味が口腔に広がる。それを大久保にも教える為に舌先で相手の唇を割り開き、中で転がるキャンディを口移しで渡せば、ようやく合点がいったらしい大久保の瞳がゆっくりと細められた。 何もここまで後輩である伊藤に操られなくても良いはずだ。どうせ多少の誤算は想定の範囲内なのだろうから、その中で思いっきり足掻いてやろう。 この甘ったるい記念日の選択権は自分にあるのだから。 「ん・・・」 舌に感じる甘さに酔ってしまったようだった。互いにキャンディの甘味を分け合うように交わされる口吻け。元々小さかったキャンディはふたりの熱に溶かされて、もう既に跡形も無い。 くしゃ、と右の手のひらの中で蜜柑色の包み紙が丸まる。頬に宛がった手を離せば、自然と唇もそれに従い、ふたりの間を甘い吐息が満たした。 「いかが、でしたか?」 「甘い」 「それは良かった」 濡れた唇を指先で拭って乱れた息の合間を縫って嫣然と問い掛けると大久保は淡々とした声で一言、感想を述べた。唇に手を当てて、しまった出し抜かれた、ときっと普通の人ならば気付かない、けれど普段から大久保を観察している木戸なら解る、小さな落胆を浮かべる。 その些細な表情の変化に木戸はもう一度、さっきのような作られた気取ったようなものじゃない心からの笑みを乗せて、喜びを口にした。今日はわたしの勝ちだ。当初の目的である大久保を出し抜くという事柄を達成出来て、思わず得意げに唇を綻ばせる。 それが大久保の御気に召さなかったらしい。不意打ちの接吻に先程とは反対に今度は木戸が目を見開き、無粋にも唇が離れるまで瞼が瞳を覆い隠すことは無かった。始終茫然としていた為にまともに呼吸も出来ず、解放された瞬間、慌てて酸素を求め荒い息を繰り返す羽目になり、じとっと大久保を睨みつける。 「甘いでしょう?」 「ええ、とっても」 素知らぬ顔で笑う大久保に憮然とした表情で意地っ張りな子どもみたいに唇を尖らせて機嫌の悪い声で返してやれば、くすくすと笑い声まで上げられてしまった。 こんなことで声を上げて笑うなんて、とまた見つかった新たな一面に驚きや嬉しさを感じながらも、それでもやっぱり噛み殺し切れない口惜しさを全て接吻に託して、唇だけで微笑む。 「あなたの口吻けほど甘いものはありませんよ」 掠め取った唇はさっきと同じ甘ったるい砂糖と香料の味がした。 |