紅差し指に誓う









「お帰りなさいませ、あなた」
「ああ、・・・・・・ただいま、まつ」

 約一年と八ヶ月、顔を会わせていなかった愛惜しい人に久しぶりの、けれど以前と変わらない挨拶をする。にっこりと彼が好きだと云った笑顔を紅を差した唇に乗せ、松子は頭を下げた。今日の日の為に下ろした真新しい着物の袖が揺れる。
 木戸はそれを見て、長旅の疲れの滲んだ顔をふっと緩ませた。以前と変わらない、だからこそ愛しい故国の我が家。
 訪れる安堵に自然と唇に柔らかい笑みを浮かべながら、木戸は目の前で笑う彼女の名を呼んだ。長い旅の果てに必ず待っていてくれる、自分という存在を優しく包み込み癒してくれる、そんな大切な家族の名前を。





「まつ、ちょっとこっちへおいで」
「何でしょうか?」

 洋装は息苦しいから一旦着替えて来ると私室に引っ込んだ木戸が襖の向こうから呼んでいるのに気付き、松子は山のような荷物を解いては片付けていた手を止め、奥の間へと足を進めた。
 小さな挨拶をして襖を引き、中に入ると畳の上に並べられた、色とりどりの綺麗な柄の反物に煌びやかな装飾品、多彩なデザインの洋服などが松子を出迎えてくれる。どれも女性が喜びそうな華やかなものばかりだ。それらを前に、洋装から和装へと衣装を変えた木戸は機嫌良さげに座って、松子を待っていた。

「まあ、こんなにたくさん! 一体、どうしましたの?」

 数々の高そうな異国の品物が並ぶその光景に思わず歓声を上げると、木戸は懐から一枚の和紙を取り出して、松子に見せるように広げた。見慣れた辿々しい筆跡にようやくそれが自分が数ヵ月前に欧羅巴に居る夫に向けて出した手紙であることを悟る。
 どういう意味だろうかと小首を傾げる松子に木戸は周りの品々をぐるりと一周見回すとにやりと唇の端を持ち上げた。

「全部お前へのおみやげだよ。こんな可愛らしい手紙を寄越されてはちゃんと買って帰らなくてはダメだと思ってね」

 右手で手紙をひらひらさせて、茶目っ気たっぷりにからかいを含んだ笑い方で揶揄されれば、さすがの松子も赤面せざるを得ない。幾ら何でも政府高官の妻として、はしたなかったかしら、なんて今更な羞恥心がむくむくと湧き上がってくる。
 一人顔を真っ赤にする松子に木戸はくすくすと小さく声を上げて笑って、すぐ側に置かれた小さな可愛らしい、ピンク色のリボンが巻かれた箱を引き寄せた。そっと松子の手に握らせ、開けてごらんと微笑む。
 云われるままにリボンを解き、蓋を持ち上げると中にはきらりと光る宝石が埋まった白金の指輪が大小ふたつ並んで収まっていた。洗練されたシンプルなデザインのそれの美しさと光を反射して煌めく宝石の清い輝きに松子は目を丸くして、木戸を見つめる。
 木戸はふわりと優しく微笑って、その指輪の小さい方を親指と人差し指で摘み上げ、反対の手で松子の左手を取った。

「欧羅巴ではね、夫婦の契りを交わす時に指輪を交換するんだそうだよ。こうしてお互いに相手の指に嵌めてあげるんだって。そしてそれは左手の薬指じゃないといけないらしい」

 説明しながら、水仕事をしている性為か少し荒れている白い手に指を這わせて、薬指に指輪を滑らせる。第一関節を過ぎ、すとんと根元まで落ちて行く指輪。ジャストフィットというには大き過ぎるそれに松子は黒塗りの瞳を輝かせ、木戸は苦い顔をした。
 しまった、サイズを誤ったと小さく心の内で舌打ちをしてももう遅い。今更海の向こうの欧羅巴まで取り換えになんて行ける訳が無く、松子に気付かれてはいけないとは知りつつもつい、渋面を作ってしまう。
 思わず買って来なければ良かったとさえ思いかけたその時。耳に入った言葉に木戸は先ほどまでの陰鬱な感情を一気に吹き飛ばされた。
 長い睫毛を何度も瞬かせてうっとりと指輪に見惚れ、心の底から絞り出したような掠れた声で、きれい、だと呟く松子の姿に木戸はほっと吐息を漏らした。深い充足感が心を満たしていき、代わりに今までの不安と期待と自信がごちゃ雑ぜになった複雑な想いが彼女の声に溶けて消えていく。
 贈り物をする時、何よりも気になるのは相手の反応だろう。純粋に喜んで貰えたならそれ以上のお返しは存在しないのだ。
 薬指に嵌まった指輪をじっと見つめ、有難うと笑う松子。
 これ程までに喜んで貰えたなら、通訳係の書記官に誰に渡すんですかとひやかされながら、宝石店のガラスケースと睨みあっこした甲斐もあったというものだ。
 木戸は松子の表情を微笑ましげに見つめながら、奥歯で満足感を噛み締めた。
 その間に松子は自分の薬指に収まった指輪をひとしきり眺め終わったらしく、次の行動を起こした。箱の中にあるもうひとつの指輪を白い指先で持ち上げて、木戸の左手を取り、茶目っ気たっぷりに笑ったのだ。

「指輪をお互いに嵌め合うんでしょう?」

 指輪を木戸の無骨な指に滑らせ、松子は満足げににっこりと笑みを浮かべた。
 木戸は不意をつかれたその行動に状況を上手く把握出来ていないきょとんとした瞳で指輪を見つめると、ふっと唇を綻ばせた。

「そうだよ」








 薬指に輝く指輪に誓おう。
 こうしていつまでも共に居ることを。ふたつ並んだ指輪のように寄り添っていくことを。ずっと遠い彼方まで愛し続けるということを。








らぶらぶ木戸夫婦。話の中の手紙は例の「たんとたんと」のおみやげをおねだりしてる手紙です。あれ、非常にかわいらしいと思うのですよ。
基本的に松ちゃんの手紙は片仮名で一生懸命書きました、って感じが滲み出てるのが良いです。木戸さんに対する愛が溢れてます。
元ネタは書簡集+上記の松ちゃんの手紙から。木戸さんが洋行中に指輪を買い求めたことは史実みたいです。それを誰に上げたのかは解りませんが(苦笑)
始めは木戸さんが松ちゃんの薬指の指輪にキスする予定だったんですが、さすがに幾ら何でも気障過ぎ、と思って取り止め。
ちなみにタイトルの紅差し指は薬指のこと。後、作中の書記官は福地君を想定してます。あいつなら思いっきりひやかしそうだ(笑)