くれなゐ









 例えそれが既に伝えられていたことでも。知っていたことでも。理解していたことでも。
 それでも、納得していた訳じゃなかった。目の前の現実を確かに真っ直ぐに見つめていたけれど、それを全て受け入れていた訳じゃなかった。
 事実を、認めていた訳じゃなかった。

 布団が汚れていく。着物に染みを作っていく。白い指先を染めていく。
 そのくれなゐの鮮やかさを茫然と見つめるわたしを彼は笑った。とてもきれいな笑みだった。青白い紫に変色してしまった唇に女が付ける紅のような色を張り付かせたまま、彼は。
 彼のその生き様のような。ひどく鮮やかな笑みを浮かべたのだ。



 ―――――― 何かが音もなく崩れる気配がした。

 それは彼のいのちかわたしのこころか、それとも他の何かなのか。
 唐突に悟った出来事に頭が混乱する。知っていた、解っていた。彼のいのちがもう短いことなど。もう幾度も笑いあうことが出来ないことなど。彼が、わたしの前からいなくなることなど。
 それでも認められずにいたのは、こうして何かが崩れていくことを予感していたからなのかも知れない。現実を受け入れてしまえば、まともに立って歩けなくなる。前へ、進めなくなる。それが、何よりもわたしは怖かった。

 これからが肝心なのだ、壊すことは簡単だ。作ることこそ難しい。もうすぐ幕府は倒れるだろう。
 倒幕が為された後、わたし達は新しい国を作っていかねばならない。
 大変だろう、重労働だろう。けれど立ち止まることは許されない。許されるはずがないのだ。

 わたしは、皆の屍を背負って、皆の志を継いで、この手で、国を作り上げていかなければならないのだから。
 結局、残された者は精一杯、逝ったひとを背負い進むことしか出来ないのだ。わたしが死者に対して出来るのは、ただそれだけ。どんなに嘆き哀しんでも、死者が蘇る訳もなく、わたし達は最後には彼らの置いて逝った想いを抱えて、前を見据え、歩いていかなければならない。
 それが残された者の使命。生き延びた者の役割。わたしが、ここに今も生きる理由。


 晋作、おまえもわたしにその屍を背負わせるのか。わたしの背はそれ程広くは無いと云うのに。





 泣き出しそうになるのを必死に堪えた。泣き顔なんて何度も見られているから、今更恥ずかしがることなんて何も無いのに、彼に涙を見せたくなかった。
 こんな弱いわたしを彼はきっと求めていない。こんな情けないわたしを彼はきっと望んでいない。

「桂さんは本当に泣き虫じゃのう」
「・・・・・・っ」

 瞳が涙に潤んだ。零れ落ちそうになる滴を押し留める為にぎゅっと目を瞑る。俯いて嗚咽を殺そうと唇を噛み締めるわたしに彼のやさしい言葉が降ってくる。苦いものを含んだ、それなのに甘い声。わたしの大好きな、晋作の声。
 苦笑いが滲んだ、駄々をこねる子どもに向けるような口調で言葉を紡いで、彼はわたしの頭を良い子良い子と慰めるように撫ぜた。痛いくらいにやさしい彼の手にわたしは諦めて睫毛を濡らした。ぽたり、鮮血に涙が混じる。

「僕はな、もう永く無いんじゃ」

 改めて告げられた現実に身体が竦む。そういえば、彼の口からその言葉を聞いたのは初めてだった。他人の口から事実を知ってから、それを彼自身に突きつけられるのが怖くて、仕事の多忙を理由に敬遠していたから。
 顔を上げられなかった。彼がどんな表情で自らの死を語っているのか、そんなもの見たく無かった。死を悟った彼の顔なんて、あれだけ強く気高く輝いていた彼の弱々しい顔なんて。

「きっともう会うこともないじゃろうから」

 そんな哀しいことを云わないで欲しい。そんな哀しい未来は要らない。たった一欠片で良い、淡く触れただけで消えてしまうようなものでも良い。
 「きっと」、その科白の後に続くのはわたしに希望を持たせる言葉であって欲しい。
 きっと大丈夫、晋作は死なない。きっとまた会える。きっとまた元気に笑える。きっとまた一緒に花見が出来る。きっとまた、一緒に、生きて、
 そんな言葉をどんなに言い聞かせても、何の効力も発しないことは解り切っているのに。
 なんて愚かな行為。それでも、例え愚者に成り果ててでも、わたしは晋作とともに生きたい。一緒に新しい夜明けを見たい。一緒に、居たい。

「僕はずっと桂さんが好きじゃった」

 放たれた言葉に思わず顔を上げる。彼の黒塗りの瞳が目の前にあった。視線が自然と結ばれる。見つめ返したその色は真夜中の萩の海よりも深くて、深すぎて、わたしにはその真意が中々見えなかった。
 彼が何を云いたいのかを理解したくて、じっと覗き込んだ瞳の奥にあったのはやさしい光。わたしを包み込むようなやさしい光。
 それが今彼が伝えたい全てなのだと感じた。
 最後だから、告げるのか。ああ、なんて残酷な。やはりおまえは残されたわたしのことなんて欠片も考えてはくれないのだね。
 ―――――― 優しいけれど我儘なおまえをずっと傍で見てきたから、そんなことはとっくの昔に知っていたけれど。

 吐息が、張り詰めた空間に落ちた。頬を流れる涙は未だ止まらずにいる。視線は繋がったままだ。互いに魅入られたように相手の瞳をじっと凝視している。わたしも彼を責める意味を込めて、目線を投げた。
 胸に込み上げてくる感情は酷い痛みと僅かな幸福感。
 好きなひとに好きだと云われる。ただそれだけの些細な、とても大切で愛惜しい幸せ。
 そしてそれをすぐに手放さなければならない哀しみ。想い人がこの世から旅立ってしまうことに対しての痛み。

 わざわざ去り行くときに告げるなんて卑怯だ。わたしにそうして更に重たい何かを残して、背負わせて、おまえはわたしの前から居なくなるのか。
 こんなちっぽけな幸せでも手に入れたものを失くすのがどれほどに辛いものなのか、おまえは知っているはずだろうに。

 そんな恨み言を吐き出したい衝動に駆られながらも、結局最後に掴んだのはその淡い告白。
 望んでいた言葉を与えられて、それを跳ね除けられるほど、わたしは強くは無いのだ。例えその後にどんな悲しみが待ち受けているとしても。


「・・・・・・わたしも、晋作が好きだよ」

 唇の端から漏れた声は上擦っていて、涙声だった。面と向かって、こんなことを云うのは初めてかも知れない。顔に羞恥が走った。その恥かしさを頬を伝う滴と共にぐいっと着物の袖で拭って、彼を真っ直ぐに見、そのくれなゐに染まった手に右手を重ねる。
 温かかった。
 濡れた指先に白い指先を絡ませ、それを貪るようにそっと握り締める。細い、骨と皮に成り果てた手のひらは、それでもやっぱり彼の手のひらでほろほろと滴が再び頬を流れた。
 こんなにも愛惜しい存在をわたしは失くそうとしている。どんなに掴んでも抱き締めても、留まってはくれない熱。
 彼の身体に渦巻く熱を共有したくて、彼の細くなってしまった小柄な背中に手を回す。布越しに触れた肌の異常なほどの熱さに病が進行を緩めずに彼の身体を蝕んでいることを思い知って、腕の力を強める。彼は一瞬何が起こったのか解らないという顔をして、それからにんまりといつもの意地の悪い笑みを浮かべてわたしに体重を預けて来た。
 軽いはずの彼の身体が妙に重たく感じて、これが彼のいのちの重さなのだろうと、これがわたしの背負う彼の想いの大きさなのだろうとそんなことを思いながら、それを静かに受け止めた。これを背負うことがわたしには出来るのだろうか。自問自答の答えはきっと最後まで出ない。
 溢れる大粒の涙は笑顔を見せたいというわたしの意思に反して、全く止まってくれなかった。彼の肌に落ち、着物に染みを作る。


「桂さんは本当に泣き虫じゃのう」

 肩口に顔を埋め、堪え切れない嗚咽を零すわたしの耳元に彼のやさしい言葉が降り注ぐ。くすくすと笑い声を上げながら、彼は泣きじゃくるわたしの背に手を回して宥めるように撫で、わたしに重たい想いの欠片を託すのだ。自らの死期を悟った、優しすぎるが故に残酷な言葉を、わたしの大好きな甘くて柔らかい晋作の声で。
 わたしのこころはそこまで大きくは無く、わたしの背はそこまで広くは無いと云うのに、わたしを、そしてわたし達が作り出す新しい未来を信じて、いつものように鮮やかな色を唇に乗せ。

「そんな桂さんも僕は大好きじゃ」

 彼はひどくきれいに笑う。わたしの大好きな穏やかで優しげな晋作の顔で。








高杉が偽物ですね; まあ高杉どころか桂さんも充分偽物な気がしますが。でもこのひと、ほんとによく泣くから、案外これで良いのかも。
桂さんはこうやって他人の死を必要以上に抱え込み過ぎて、倒れちゃったんだと思ってます。普通は古いものから順にひとつずつ思い出に昇華させていくのに、
それが出来ずに背負い続けちゃったんじゃないかなあ、と。普通の人なら軽い物でもわざわざ重たくしちゃう、生き方が凄く不器用な人なイメージです。