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雨は、好きだ。しとしとと降り続く梅雨のそれもざあざあと叩きつける真夏のそれも、素直に好ましいと思える。全身に天の恵みを浴びていると何もかもが流れ去ってしまうような気がするし、地味な色の傘から除く灰色の空も美しいと感じるのだ。 友人に話すと彼はそれは不思議そうに首を傾げ、雨なんて移動が不便になるだけだとぼやいたけれど、わたし達は基本的に正反対で、彼の価値観とわたしの価値観はある一点においてしか合わないのだから、当然かも知れない。 兎にも角にもわたしは雨が好きだ。雨が降ると何時もとは違う日常が過ごせる気がする。そう、今日のような肌寒い秋雨の日もわたしは好いているのだ。 藩邸の一角にある道場の扉を開け、竹刀を片手にわたしは細い霧雨を降らす灰色に曇った空を見上げた。つい先程までは見事な秋晴れだったから、丁度いいと久しぶりに身体を動かしに来たのだけれど、まったく男心と秋の空は移ろい易いとはよく云ったものだ。 さっきまで練習ついでに稽古をつけてやっていた男達も晩秋の常より早い夕暮れ時ということもあって、皆軽く挨拶をして自室へと帰っていった。道場内にはわたしの他にはもう誰も居ない。雨音しかしない室内はつい半時程前の活気さが嘘のように静まり返って、道場らしい凛とした空気と静謐さを漂わせている。 ぼうっと雨に降られている世界を見渡せば、酷く些細だけれどとても美しい秋の一幕が映る。毎年同じように訪れるのに、一度として同じものを見ることは出来ない、季節の移ろいの儚さに溜息が出た。先端から少しずつ色を変えてゆく木々の葉は水を浴びて更に色濃く染まり、庭師によって綺麗に整えられた桔梗や菊の花もまた滴に濡れ、華やかに咲き乱れている。 ふいに竹刀を放り出してあの美々しい世界へ飛び込んでいきたくなって、衝動のままに竹刀を道場内へと投げた。水を含んだ空気に乾いた音が響く。履物が無かったが、そんなもの必要ないとさえ思えて、裸足のまま庭へ降りた。雨がわたしの身体中に降ってくる。足の裏の冷たい感触に肌を叩く滴。 汗の滲んだ稽古着が雨に濡れることはいっそ洗濯代わりでいいかも知れない。肌を伝う雨粒も風呂の代わりだと思えば悪くない。勿論、この後湯殿に直行しなければならないことはわたしにも解っているのだけれど。 そんな意味の無いことを考えながら、見知った庭を歩く。雨の中を歩いているというだけで何時もと違う風景が見えるようで、年甲斐も無くわくわくした。とくんとくんと胸が高鳴る。 視界が雨の所為か透明になる。花の色が何時もよりも鮮やかに感じる。一輪の極平凡な黄色い菊の花が特別に映る。思わず手を伸ばし手折りかけて、ふとその手を止めた。隣の桔梗とどちらが良いか迷ったのだ。それにしても精一杯逞しく咲いている花を摘み取ったとしてそれを渡す人も居ないのに、わたしはどうしようと云うのだろう。まったく見通しが立っていないではないか。 それでも何故だかわたしはその花が欲しいと思った。愛しいと思った。好きだと思った。 数秒、あるいは数十秒、考え込んで結局どちらも我が物にしてしまうことにする。健気に月日を費やして花開かせた彼女らをわたしは残酷にも摘み取ってしまうのだ。花にとってこれほど惨いことはあるまいと思うけれども、指先に篭る力は抜けなかった。 ひとつ、黄色い菊の花、ふたつ、青い桔梗の花。 幾度もこの手に抱いた女子達に接するように優しい手付きで慈しむように手折る。どんなに花に対する愛を込めたとして、その命を奪っていることには変わりないのに要はわたしの自己満足である。 二輪の正反対の色をした種類の違う花を同じ手で握って、些細な花束を作り悦に浸る。きれい。きれい。そう、正反対だからこそ美しいのだ、この二輪の花は。 その粗末な花束を片手に目の前にちらついていた朱に染まりかけた紅葉の老木へと歩み寄る。雨水を吸い込んだ着物が重たくて動き辛い。しどどに濡れた袖は絞れば随分と水が出るだろう。水に含んだ地面は足を持ち上げる度にべちゃべちゃと音を立てる。その音さえ雨音を交じり合って独特の雰囲気を作っていて、聴覚までも侵されていく気がした。 視界一杯に映る紅葉をじいっと見つめ、ほうっと溜息を吐く。若緑が徐々に黄色を経て朱へと染まってゆく様は誰が見ても美しいとうっとりするだろうと思えるほどの情感を湛えていた。秋と云えば、やはり紅葉だ。何度見ても美しいと思う心は色褪せない。そう押し葉にして残されたあの日の紅葉の葉のように色褪せることは無いのだ。 深みを増した紅に瑞々しさを放つ若緑。まだ完全に変わりきっていない紅葉の葉はふたつの正反対の色をひとつの葉の上に共有させている。それがまだ絶妙な色合いで合わさっていて、とても綺麗だ。 「きれい」 「なーにやってんだ、小五郎」 滴が地面を叩く音に遮られ掻き消えそうなくらい小さな声でぽつりと呟く。すると、それに追従するように明るい怪訝そうな声が降ってきた。 慌てて声の主を振り向く。誰かが背後に立っているなんて思いもよらなかった。武門を極めた者として一生の不覚だ。最低だ。齊藤先生に何とも申し訳が立たない。 後悔に満ちた陰鬱な気持ちを抱え、何で気付かなかったんだ気配を察せ無かったんだと自問自答しながら、背後に立つ男を驚きを込めた丸い目で見る。 「良蔵さん」 「こんなとこでびしょ濡れで何やってるんだ。道場に居るって聞いたから稽古でもしてるのかと思ってたのに」 僅かに上擦った声で名前を呼ぶ。彼はわたしに地味な色の紙が貼られた傘を差し掛け、こちらもわたしに負けず劣らず目を丸くして溜息を混じらせつつ問いかけた。きっとさっきの男達がわたしの居場所を告げたのだろう。屋根のある道場に傘を持って来るとは思えないから、雨に濡れるわたしを見てわざわざ傘を取りに戻ったのだろうか。 この律儀で親切な少し年上の友人に返す言葉が無くて、未だ止みそうに無い滴を落とす重たそうな雲を見上げ、こうして雨に打たれている理由を簡潔に述べた。 「きれい、だったんです」 「は?」 「雨に濡れたこの世界が」 一旦区切れば、当たり前のように予測された反応をする彼についくすりと笑みを零してしまう。そして、真っ直ぐに庭を見渡しながら、手に握られた花を見つめながら云った。 彼は一瞬意味が解らないといった表情をして、首を傾げた。彼には解らないかも知れない。何せ雨を移動が不便になって面倒なだけだと一刀両断した男だ。 けれど、手に持った花を差し出すと彼はわたしの好きな明るい笑みを見せたので、わたしは自分の気持ちが少しだけだけれど解って貰えたような気がして、胸が一杯になった。 そう、それだけで充分なのだ。基本的に何もかもが正反対で、ある一点における価値観しか共有出来ないわたし達は、だからこそほんの少し同じ感情を共に出来ただけでとても嬉しいと思える。 「うん、きれいだ」 彼がこうやってあっけらかんと笑う顔がわたしは好きだ。暗い色の傘に隠れていても彼の生来の明るさは霞みも澱みもしない。寧ろ、更に鮮やかになる。そう、まるで黄色い菊と青い桔梗のように、夏の名残を見せる若緑と冬の訪れを告げる紅のように。正反対で有るが故に、互いを引き立たせ、より一層美しく見せてくれる。 「差し上げます」 「何だ、 くれるのか?」 「ええ、あなたには明るい色が似合うから」 ふたつ寄り添うように咲き誇る二輪の花の片方を差し出す。太陽のような鮮明な色をした菊の花。根が明るくて優しい彼にそっくりだ。 ああだからかも知れない。一番最初にこの花を手折りたいと思ったのは。こんな何処にでもあるような黄菊をすぐにでも摘んでしまいたい手に入れてしまいたいという衝動に駆られたのは。 「そっちは?」 「こっちはわたしのです」 菊の花を受け取って見つめながら、ふともうひとつの桔梗を見遣る彼にわたしは笑う。彼は訝しげに眉を寄せて首を捻ったけれど、意味が解らなかったと見えて、すぐに元の表情へ戻った。 わたしの手の中で桔梗がふるりと花びらを揺らす。大きな雨粒が紅葉の木から滴って、花弁の上に落ちたのだ。雨粒に濡れる花は今のわたしと変わらず滴に濡れ、青みが深くなり美しい。 「きれいでしょう?」 小首を傾げ問いかければ、彼はああと大きく頷いてくれた。 同じものをきれいだと思える、たったそれだけでどうしてこんなにも幸福なのだろう。きっと彼だからだ、そうきっと。 視界に映るものが同じでも、全てを同じように感じることはふたりが違う人間である以上、出来ない相談だ。それでもこうやってたったひとつでいい、同じものを同じようにきれいだと思えたなら。大好きな愛惜しい人と同じ価値観をほんの少しで構わない、共有出来たなら。それは酷く嬉しく、幸せなことなのだとわたしは思う。今、胸が一杯なのもきっと幸せで堪らないから。 「さ、こっちへおいで。風邪引くだろう」 「っくしょん」 「ああもうだから云わんこっちゃない。さっさと上がるぞ。で、すぐに湯殿直行な。季節の変わり目なんだからただでさえ風邪引き易いのに、おまえ自分が意外と身体弱いこと、忘れてないか?」 「大丈夫ですよ、これくらい」 「大丈夫なら良いんだけどな、おまえの場合大丈夫じゃないかも知れないから云ってるんだよ」 花を持っているのとは別の手を掴まれて、強引に傘の中へと連れ込まれる。甲斐甲斐しく心配してくれる彼の好意が嬉しくて思わず口許が緩んでしまう。 真剣な顔をしてわたしのずぶ濡れの腕を引っ張って、屋根のある場所へ引き込もうとする彼の背中をじっと見つめていると、このまま風邪を引いたら看病してくれるだろうか、なんて不謹慎な考えが頭を過ぎった。瞬間、脳内に描かれた予想図はきっと現実とそれほど変わりは無いのだろう。この優しい友人は熱を出したなら出したで仕事の合い間に覗きに来てくれるに違いないのだ。 そしてわたしはそれに甘えてしまう。与えられるだけの優しさを甘受して幸福に浸ってしまうのだ。友情に篤く面倒見の良い彼の優しさに。 「ねえ、良蔵さん」 「ん、何だ?」 「わたしね、良蔵さんのこと好きですよ」 「ああ俺もお前のこと好きだよ」 素直に感情を吐露したらわたしの望む言葉が返ってくる。 ―――――― ああ、幸せだ、わたしは、何て幸福。 繋がれた彼の手のひらの温もりが酷く愛惜しくて、その手にぎゅっと力を込める。握り返された手のひらはぽつぽつと降り注ぐ雨を蒸発させることが出来そうなくらいに熱を持っていた。手の中の桔梗の花がわたしの心の震えが伝わったかのようにふるりと揺れた。 |