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気だるい身体を持ち上げ、ベッド脇に備え付けられたランプに火を灯せば、ぼんやりと部屋が小さな明かりに照らし出されていく。 窓の外はまだ暗い。尤も、この倫敦という街は決して明るい街ではなく曇っている日が多いので、厚い雲に朝日が遮られている可能性も無きにしも有らずだが、時計が指し示す時刻もまた明け方と呼ぶには程遠い深夜であったので、そこから大久保はあれからそんなに寝てはいないのだろうと自らの僅かな睡眠時間を推察した。 ほんの一時間、二時間ほどしか寝ていない。このままでは明日に響くだろう。けれど、大久保の瞼はぱっちりと開いてしまっていて、再び閉じるまでにはしばらく時間を要しそうだった。 はあ、と溜息を落として、身体を起こす。ギシ、とベッドが軋む音に隣で眠っていた木戸が僅かに身動ぎをした。 「ん・・・」 その声に木戸のほうを見遣れば、彼はこうして大久保が起き出しても、瞼をぴくりとも動かさずに熟睡しているようだった。何時もは消えている子どもっぽいあどけなさが覗く寝顔を晒して、健やかに寝入っている。身体を酷使した所為かも知れないが微塵も起きる気配が無い。 その様にいっそ羨ましくなり、眠りたいのに眠れない苦悩に自然とまた吐息が漏れた。何も纏っていない身体に脱ぎ捨てられたシャツを羽織り、備え付けの簡易キッチンへ足を運ぶ。食器棚からグラスを出し、蛇口を捻った。透明で綺麗だけれど美味しいとは云えない水がガラスの器を満たしていく。 それを片手にベッドへと戻る。脇に腰掛けて、水を一口飲んだ。渇いていた咽喉に染み入るように水が通過していく。この際、味は気にしないことにしよう。舌先に残る苦味を振り払うようにもう一度グラスに口を付け、サイドテーブルの上に置いた。 そして、ランプのすぐ傍にあった煙管と刻み煙草が詰められた箱を手に取った。咽喉も潤ったことだし、一服するのも良いだろう。煙管に刻み煙草を詰め、マッチで火を付ける。吸い口に唇を寄せ、すうっと吸い込めば、煙が胸を満たしていくのが解る。肺一杯に吸い込んだ煙を吐き出すと灰色のそれは徐々に空気へと馴染んでいった。同じことをもう一度、繰り返して、小皿の上に灰を落とす。 もう一度、煙草を詰めて吸う。心は落ち着いたが、暇だという感情は収まらなかった。眠気は一向にやってこない。睡魔に襲われたいのに、その魔物はそっぽを向いてこちらを見てくれもしない。深夜に大人しくすることなどほとんど無く、下手な行動をすれば隣で惰眠を貪る憎たらしい男を起こしてしまうことになる。 寝起きの木戸は酷く不機嫌だ。伊藤に云わせると、それは大久保に対してだけで、伊藤やその他親しい人々と寝起きに会ったり、緊急の用が有り叩き起こしたりした後でも極普通の態度を取るらしい。木戸の態度が大久保に対してだけ変化するのはよくあることなので、気に留めてもいないが、ただでさえ苛々しているのにそれを増長させるようなことは避けたいものである。 「ふう・・・」 溜息が唇の端から零れるのはもう何度目だろうか。ふと煙管を片手に振り向いて、シーツにもう片方の手を付き腕一本で身体を支えながら、ベッドの向こう、未だ闇に覆われた空を見つめた。夜明けはまだまだ遠い。 吸い口を咥え、煙を口腔へ取り込んでゆく。思いっきり吸い込んで吐き出せば、思ったよりもたくさんの煙が空気に溶けて消えていった。煙草の匂いが部屋に漂う。 この香りが大久保は好きだ。今日の銘柄は殊に好きなもので、日本より持参した選りすぐりのひとつだ。煙管から昇る煙が鼻先を掠めるのに満足げに笑む。 ところがその大久保の人前では中々お目にかかれないほどの柔和な笑みはしん、と静まり返った室内を切り裂いていく隣で眠る木戸の唇から発せられた一言によって固まってしまった。 「うん・・・しん、さく?」 「・・・・・・私ですよ、木戸さん」 重たげな瞼をぱちぱちと瞬かせて、ぼんやりとした目で大久保を見る木戸に低い声で自身の存在を示す。木戸は寝起きのまだ幼さを残した表情で小首を傾げ、数秒後、ようやく事態を把握したようだった。曇った瞳に光を灯らせ、意識を完全に覚醒させた木戸は大久保を真っ直ぐに見て、それから煙管をじっと見つめ、こんこんと軽い咳をした。 「大久保さん。それ・・・」 「煙草がどうかしましたか」 「いえ、懐かしい、匂いがするんです」 愛惜しむような眼差しを煙を立ち昇らせる煙管に向け、ゆっくりと瞑目する。伏せられた瞼が何かを感じたかのように微かに震え、唇から漏れる安堵の吐息は煙草の煙に混じって溶けてゆく。すう、と煙を吸い込む度に小刻みに揺れる剥き出しの肩。そんなに苦しいのならば、吸い込むのをやめれば良いのに、と大久保は思うのだが、どうやら木戸には大久保には解らない感情があるらしい。 大方、先ほど呟いた名前の人物に関することなのだろうが、大久保にとっては面白くないものだった。未だ閨の中に居るというのに他の男を思われるなど。挙句、他の男と自分を重ねられるなど。 煙草の匂いに酔ったかのように軽い咳を何度も零しながら、それでも煙を吸い込もうとする木戸に苛立ちが募る。その瞳は靄のような霧がかかっていて、今目の前の大久保が見えているのかさえ解らない。 そんなにこの匂いが好きなら、と煙管に唇を寄せ、深く吸い込んだ。そしてそれをふうっと木戸の眼前に向かって吐き出す。突然、灰色のそれに視界を覆われて、木戸は目を見開いて大きく咳き込んだ。 「っけほ、けほ・・・っ」 「そんなにこれがお好きなら、お好きなだけどうぞ?」 不機嫌を露にした声音でにっこりと厭味な笑みを乗せて問うても、木戸には何を云っているのか解らないようで、首を傾げて煙が沁みた目を何度も瞬かせた。 元々そんなに肺が強くない木戸のことだ。最近は胸痛にも悩まされていると聞いたし、先ほどの煙はどれだけ身体に負担を掛けただろう。 止まらない咳に顔を顰めて、ベッドに突っ伏す木戸を嘲りを含んだ視線で見下ろし、大久保は煙管の中の灰を小皿へと叩き落した。新しい煙草を詰め、何時でも火を付けられるようにしておく。 その間に落ち着きを取り戻したのか、木戸は顔を上げ、きょとんとした涙に潤んだ瞳で大久保を見つめ、稚気さえ感じられる口調で問いかけた。 「わたし、何かあなたの御気に障るようなこと、しましたか?」 「解らないのなら構わないのですよ」 「でも、」 本心だった。解らないのなら解らないほうがいい。ほんの数分、人生の何万分の一にも満たない時間でも死人相手に妬心を抱いたなんて人生の汚点だ。もう相手はこの世に存在せず、張り合う必要など微塵も見つけられないというのに。何と愚かなことだろう。そんな愚かさなんて気付かずにいられるならば、気付かないほうがいいというものだ。 尚も言い募ろうとする唇が鬱陶しくて、煙管を小皿の上に置いてから手首を掴み取り、塞いでやる。舌で口腔を掻き回してやれば、従順に身体を預けてくる。 唇が離れたときにはもうとろんと瞳を溶かしていた。乱れた呼吸の合い間に名前を呼ばれ、返事の代わりにもう一度、口吻けた。もういっそ、このまま済し崩しに突入してしまおうか。そうすれば、ほんの僅かでも睡眠時間が得られるかも知れない、と当初の願望を思い出しながら、汗に濡れた髪を掬い上げ梳いてやる。 ん、と漏れる甘い吐息と舌先で混ぜ返される味。さっきの煙草の名残を奪うように舌を絡め、指先に触れる柔らかい髪の感触を愉しみながら、大久保は目を閉じた。 瞼に覆い隠された瞳は大部分の光を感知出来なくなり世界は闇に包まれる。それでもやはり睡魔は襲って来ず、魔物がわざとらしい声を上げて底意地の悪い笑みを浮かべているのが遠い紫煙の向こうに見えた。 ランプが消えた部屋の中、空気へと馴染み溶けた煙草の燃え滓が僅かばかりの光を宿す。ランプの灯よりも明るいそれはしばらくの間、消えなかった。 |