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だから僕達は生きて、生きて、生き延びて。 俯いた頬に涙が伝った。本当は泣きたくなんて無かった。余りにも自分が惨めに思えるから、泣きたくなんて無かった。でも涙は止まらなかった。周りの皆に気付かれたくなくて、膝に顔を押し付ける。咽喉の奥から漏れ出そうになる嗚咽を必死に飲み込んだ。 目を瞑ると最後に優しく諭すように微笑んだ彼と屋敷を包み込んだ真っ赤な色が浮かぶ。鮮やかな紅と藍色の空。 ――――――お前らは生きろ。生きて、未来の長州を、この国を、お前らが背負うんだ。 真剣な眼をして、彼は云った。その黒塗りの瞳が今まで見たことが無いくらい、強い意志を宿していて、僕は何も云えずに頷いた。 本当は頷いてはいけなかった。僕の小さな身体じゃそんな重たいもの背負える訳ないのだから。とても大きな背中を持った彼だからこそ背負えたそれは僕には大き過ぎる。だけど、僕の返事に彼は酷く満足げに笑ったから。 ああ、これが僕の使命なんだと悟ってしまった。 ごうごうと炎は燃え盛り、辺りは次第に真っ赤な色に包まれていく。幕府の兵がもうすぐそこまで来ていた。早く逃げないと捕まってしまう。それなのに足は根を張ったように動かなくて、ただただ目の前の彼が笑っているのを茫然と見つめることしか出来なかった。彼の言葉を噛み締めるように唇に歯を立てた。僅かな痛みと滲む紅色。 彼が、再び真面目な顔になって、叫んだ。火の粉が、舞う。 「早く行け。間に合わなくなるぞっ!」 やじに腕を掴まれ、引き摺られるようにして走り出す。振り向かずに前を真っ直ぐに見て走るやじの目は何時もと違って強い光を持っていた。目の前にある背中は僕と少ししか変わらないはずなのにとっても大きく見えて、僕もまた自分の意志で駆け出す。 足が重たくて仕方が無かったけれど、何度も縺れて転びそうになったけれど、それでも前へと進んだ。前へ、前へ。二度と振り返らずに。真っ赤な炎に覆われた街を僕達は走った。 耳に木霊する声が泣くなと告げる。泣いたって何も変わらないのだから、と。ここで頽れてしまっては生き延びた意味が無いじゃないか、と。 ふいに浮かんだ彼の姿。十八日政変。去年の夏。彼は衝撃の中でそれでも真っ直ぐに立っていた。一切の涙を溢さないで、強い眼差しで前を見て。そう、彼は諦めていなかった。今までやってきたことが全て無に帰していくそんな衝撃の中でも彼は真っ直ぐに前を見据えていた。 そしてそれはあの日の隣のやじの姿でもあった。僕は戸惑いと躊躇いと重責とそんな色んなものに押し潰されそうになって何も出来ずに居たのに、やじは違った。ぎゅ、と握り締められた手が汗に濡れていたことも、痛いくらいに力が込められた手に本当は怖くて堪らないのだということも僕は気付いていたけれど、それでも、そんなものを抱え込んでいても、やじは真っ直ぐに前を見ていたのだ。 「やじ」 「何」 同じように座り込んで膝に顔を押し付けているやじにぽつりぽつりと零す。やじは顔を上げて空を見つめ、素っ気無い返事をくれた。その声は何時ものやじの明るくってその場が活気付くようなものでは無かった。でも僕には何故だか安心感をもたらすもので、僕はほっと吐息を落とした。 それからそれを吸い込むように大きく呼吸をして、咽喉の奥から搾り出すような声で重たい重たい科白を吐き出した。 「僕は、久坂さんみたく背負えるじゃろうか」 しーんとその場が静まり返る。やじはしばらく何かを考え込むように目を閉じていた。そして瞼を持ち上げると、ふっと笑った。 「市には無理だよ。だって久坂さんよりも一尺も小さいんだもん」 「背のことは云うな!」 明るい何時もの笑い方でやじは何時もの冗談を云った。反射的に僕も何時もの科白を返す。何度も繰り返された応酬。空気が軽くなった気がして、自然と僕も笑っていた。やじは僕の笑顔を見て、やっと笑ったと微笑んだ。それでようやく僕はさっきから引っ切り無しに溢れていた涙が渇いていることを知った。 指先で目許を拭う僕にやじは綻ばせた口許をきゅっと引き締めて、真っ直ぐに前を見て、僅かな光だけれど瞳をきらきらと輝かせて、とつとつと言葉を綴っていく。 「でもね。市だけじゃなくて、僕やここに居る皆や国に居るたくさんの仲間が力を合わせればきっと大丈夫だと僕は思うんだ。久坂さんだってひとりで全て抱え込んでた訳じゃない。自惚れかも知れないけど、僕や市や皆が居たからこそ、久坂さんだって頑張れたんだと思う。だからあれは市だけじゃなくて今、生きている皆へ宛てた言葉じゃないのかな。僕達はその代表だっただけ。そしてだからこそ僕達はあの言葉を聞き届けたひとりとして、頑張っていかなきゃダメなんじゃないのかな」 その声は僕の話し掛けているだけじゃなくて、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。僕がその重量に押し潰されそうになるくらいだ、やじにだってそれはきっと物凄く重たいものなんだろう。当たり前の話だ。気丈にしているけれどやじの背中だってそんなに大きいものじゃないし、歳だって久坂さんには到底及ばない。 だけど、やじはやじなりに考えたんだろう。彼が残した言葉の意味を。そしてそれをどういう風に受け取れば良いのかを。ゆっくりとしっかりと噛み締めて考えたんだろう。どうやれば重たすぎる未来を背負えるのか。どうすれば今後、苦難ばかりが待ち受けているであろう未来を乗り越えていけるのか。そんなことを一生懸命に思い巡らせたのだろう。 そうやって導き出された答えはもしかしたら間違っているかも知れないけれど、僕にはとても正しいものに思えた。 「そうじゃな。僕らはどうやったって久坂さんにはなれん。じゃが、それでも出来る事はあるはずじゃ。僕らは僕らなりに頑張って行かんとな」 「うん。風当たりは強いかも知れないけど精一杯やっていかないとね」 俯いてやじの言葉を噛み締める様に頷く。顔を上げたら、やじの茶目っ気たっぷりの何時もの瞳が覗き込んでいた。視線がぴたりとかち合う。思わず表情を見合わせて笑ってしまった。 僕らの未来に待ち構えているだろう様々な困難もきっと大丈夫だと思えるくらいの強さで。どんなに難しい事柄が僕らの前に立ち塞がったとしてもそれさえも吹き飛ばしてしまえるくらいの明るさで。たくさんの絶望や重責や戸惑いが襲いかかって来ても、あの人のように強く真っ直ぐに乗り越えていける様に。 僕らは疲労の滲んだ顔にそれでもと、希望を絶やさない笑みを浮かべた。それでも、僕らはあの日、彼と見た明日を諦めないのだと。それが僕らが生き延びた理由なのだと訳も無く信じながら。 |