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「聞多ぁ」 「何だよ、俊輔」 突然後ろから抱き付いてきた親友に井上は素っ気無い言葉を返した。何事かと振り向くと肩越しに伊藤の疲れた色をした瞳とかち合う。 その表情にしょうがないなあと半ば諦めの境地に陥る。こういうときの伊藤に何を云ったって無駄なのだ。意外と寂しがりやで甘ったれなこの親友には。 「何してんの」 「聞多から力を吸収してるの」 「何の為に?」 「・・・・・・明日も、僕が僕で居る為に」 ぎゅう、と抱き締められる。その強い力に僅かに眉を顰めて、けれど何も云わずに伊藤に付き合ってやる。本当にこのまま全て吸い取られて融合してしまいそうだな、なんて有り得ないことを考えながら、井上はそのままされるがままになった。 窓から差し込む光が夕暮れの橙に染まり、室内を照らし出す。庁舎の滅多に人の通らない廊下はふたりだけの空間になる。穏やかな陽射しに包まれて、ふたりの呼吸音だけが響く。 それを聞き逃してしまいそうなくらい小さい伊藤の声が遮った。 「ねえ、聞多はずっと僕の味方だよね」 「・・・・・・当たり前だろ」 聞こえなかったフリが出来るくらいに微かなそれに確かなコトバを返してやれば、井上の身体を捕らえる腕の力が強くなった。 手を後ろに回して、伊藤の背をぽんぽんと叩きながら、こりゃ相当お疲れだな、とひとりごちる。 何時だって笑顔を繕って明るく振舞う伊藤が弱音を吐くなんてどれくらいぶりだろう。井上の前でさえ、そうやって自分を作って弱いところを一切見せない伊藤がこんな風に自分を晒して縋るなんて余程のことがあったに違いない。 正直、気にならないことは無いのだが、伊藤が云わないなら聞かないでおこうとむくむくと首を擡げる疑問を押さえつけて決めた。 伊藤が話してくれたときに、黙って受け止めてやればいい。何かを吐露したいと思ったとき、すぐ傍で聞いてやればいい。そう、さっき云ったように井上は何時までも何処までも、伊藤の味方なのだ。 「・・・・・・あー、やっぱ聞多といると落ち着く。安心する」 どれだけ、そうしていただろうか。 井上には妙に長い時間のように感じられたけれど、窓から覗く太陽の位置はそんなに変わっていないからたぶん、短い時間だったのだろう。 ようやく解放された身体を伊藤のほうへ向けるとあっけらかんとした明るい表情で伊藤は笑っていた。そこには先程見つけた疲れた色など微塵も見つけられない。何時もの伊藤の人懐っこい、思わず猫可愛がりしたくなるような、そんな笑みだった。 「・・・わっ、何だよ聞多!」 「そりゃこっちの科白だっつーの。ったく、俺は何か、ぬいぐるみか何かか」 自分の前でもそうやって傷付いたことや不安なこと、淋しいこと悲しいこと、胸いっぱいに溜め込んだ色んな気持ちを隠す親友に対してのほんの少しの意趣返し。 頭をぐしゃぐしゃと乱暴にかき混ぜてやる。柔らかい髪の毛の感触が指の間を通っていく。伊藤は乱れる髪に目を丸くして、井上を見た。 「ううん違うよ、聞多はね、僕の最後の逃げ場所で一番の癒しなの。もうダメだって思うと自然と聞多のとこ行きたくなるんだよ」 ちょっとした冗談のつもりで放った科白に真っ直ぐに答えを返されて、それが自分の存在価値を示す、物凄く嬉しい言葉だったから、井上は照れ臭くなってかっと頬を赤らめた。 こうやって伊藤は単純な、きっと彼自身気付いていないだろう自然な言葉で本当は友人としてちょっと不甲斐ないのだろうか、なんて少しだけだけれど、感じてしまっていた自分を掬い上げて笑うのだ。 きっとこいつには一生敵わないのだろうな、と諦めを含んだ苦笑が浮かぶ。目の前で笑う親友の頭に置いた手をもう一度、動かして、今度は優しく髪を梳いてやる。擽ったそうに首を竦める伊藤に井上は目を細めて、優しい包み込むような声で告げた。 「これからはそうなる前に、もうちっと早く相談してくれな。最終手段を使う前に」 「はぁい」 間の抜けた返事。余りにも嘘っぽいそれに、次もどうせぎりぎりまで我慢するんだろうなあ、なんて溜息を心の中で落としながら、井上は笑った。 まったく何時まで経っても世話の焼ける親友だ。昔も高杉に怒られてしょげているこいつをよく宥めていたものだが、これからもそのお役目から解放されることは無いらしい。 「今日は久しぶりに飲むか!」 「うん、行こう」 ぽんっと頭を叩いて歩き出せば、隣を陣取る影がひとつ。夕焼けが夜空と混じり、黄昏時はもう終わることを知らせてくれる。 今晩はきっと夜まで飲み続けるのだろう。だがそれもいい。 藍色に染まる東の空に輝く月を見上げて、それから隣で何処の料亭に行こう?と頭を悩ませる伊藤を見遣り、井上は苦笑いを零した。 |