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煙草の匂いは嫌いだけれど、彼が燻らせる一筋の紫煙がわたしは好きだった。 わたしの肺のことなんて気にもかけずに彼は大きくその煙を吸い込んで部屋の中一杯に満たしていく。そんな彼の満足そうな表情がわたしは好きだった。 痛む胸を押さえ咳き込みながら、それでも顔を上げて盗み見る彼の微かな笑みは普段のわたしに向けられるはずが無いもの。それでもその表情を間近で見ることが出来る、たったそれだけの関係がきっと彼だって面倒で厭わしいだろうふたりの交情が、わたしは、愛惜しくてならなかったのだ。 扉を開けるとその部屋は仕舞い込んだ記憶を擽る懐かしい、そして愛惜しい煙草の匂いで埋め尽くされていた。視界が霞んで、僅かに歪む。ほんの少し歩けば触れられるはずの部屋の主が何故だかとても遠い存在のように思えた。白く清い空気など欠片も見当たらず、決して体調が良いとは云えないわたしにとっては酷く有害な煙が肺に詰められていく。 こんこんと小さく咳をした。けれど、その度にその灰色の煙は身体の中に入り込み、わたしを染め上げてゆくようだった。拒絶したいのに、どれだけ否と叫んでも、侵食を止めることはもはや叶いそうにない。 小脇に抱えた書類を持ち直して、大久保の元へ歩み寄る。近付けば近付くほど心の中に恐怖が募って、ダメだと解っているのに視線がぶれた。机の前に立っているのに相手の顔を直視することが出来ない。早く退室してしまいたいと思った。一分一秒でも長くこの煙に包まれていたくない。大久保と共に居ることなどとんでもないことだ。 「木戸さん、」 呼びかけられて思わず足元に落としていた目線を引き上げた。自然、視線がかち合う。ふう、と薄い唇から吐き出される煙が鼻を擽り、目に染み込み、身体を包み込んでいく。 ぎゅっと目を瞑った。悪趣味だと思った。こんなことをされたら否が応でも塗り替えられてしまう。嫌だ厭だいやだ。甘くて優しい思い出さえも唯一心に秘めていた淡い想いさえも、この人は抱くことを赦してはくれない。狂おしいまでの恋情に掏り換えられてゆく、きれいでうつくしい、もう手を伸ばしても届かない、微温湯のような想い。 きっと大久保はわたしがこの煙草に対して抱いている想いなど知りはしないのだろう。だからこそ、苦しかった。大きく咳き込んで手のひらで口許を押さえる。胸が痛いのは、煙草の所為だけでは無いみたいだった。 「大久保、さん」 目を合わせられない。だって、合わせてしまったらそこでわたしは陥落してしまう。耳に入り込む何でもない呼吸音、微かな吐息。たったそれだけでこんなにも切なくて愛しくて、どうにかなってしまいそうになる。 本当に、今日のわたしはどうかしている。何時もなら相手の目を見据えて会話をすることくらい何でもないことなのに。きっと、この頭の奥深くに眠る記憶を呼び覚ましては塗り替えてゆく、甘い匂いの所為だ。そう思わないとやっていられない。だってこんなにも胸を掴み込んで離さない感情を普段のわたしも擁しているだなんて。認めたくはない。 早く終わらせて立ち去ろうと事務的に書類を差し出した。煙管を盆に置き、白い紙の束を受け取る細い指先。これで終わりだ、ほっと息を吐いた瞬間、書類を持つのとは反対の手で下げようとした右手を掴まれた。 ―――――― 囚われてしまう、感覚。 手首に回された指先、強い力。逃れられない、この煙からも大久保からも。諦めのような、思いが生じた。脳内で輝いていた希望が絶望に瞬時に塗り替えられた所為らしかった。 握り締められた手首が痛くて、でもそこだけで収まる痛みなどでは到底無く、身体の節々が痛むような気がした。 大久保がわたしをどうしたいのかが解らなくて微かに小首を傾げる。大久保はそんなわたしの疑問に答えてくれる気は無いようで、あっさりと無視をして、反対の手に持った書類を机上に丁寧に置いた。数秒、時が過ぎる。大久保は少しの逡巡を経て、わたしの手を解放した。そして、立ち上がると未だ事態が上手く把握出来ず硬直していたわたしの手をもう一度、掴む。 呆然としている間に逃げる機会を脱してしまったわたしはしまった、と遅い後悔をしたが、今更どうしようもなかった。手首に回る指に込められた強い力にわたしは大久保に囚われてしまったことを悟った。 きっとさっき手を握られた瞬間、わたしは絡め取られてしまったのだ。違う、この部屋に入ったときからずっと。わたしはこの煙に大久保が薄い唇から紡ぐ紫煙に・・・・・・囚われていた。 その手を捕らえたまま、大久保はわたしの身体を近くのソファへと押し倒す。もう為すがままだった。あの黒い瞳に見つめられると身体の力が抜けた。今のわたしは酷く従順な、子どもの手に玩ばれる人形と同じだった。 「っ・・・」 反対の手で肩を押さえ込まれ、乱暴な口吻け。何時も冷静で慎重な大久保らしくないものだと思った。けれど、口腔を犯していく舌と一緒にわたしを染め上げてゆこうとする甘い匂いが心地好かった。 わたしの愛惜しい思い出、それさえも大久保のものへと変化してゆく。きっとわたしは今度、この煙を胸一杯に吸い込むとき、大久保のことを想うだろう。大切な、大好きだった幼馴染のことでは無く。愛している、目の前の男のことを。 首筋を伝う舌先、鎖骨に埋められた顔、鼻先を髪の毛にまで染み込んだ甘い匂いが擽る。その匂いを吸い込み、僅かに咳き込みながらわたしは、愛惜しい、と思った。囚われてゆく自分の運命を微かに予感しながら、それでも肺が訴える僅かな痛みさえ、甘く、愛惜しいと。 |