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「あ、れ・・・・・・?」 ぼろぼろと零れる涙。頬を流れる熱い滴。 目の前がぼやけて上手くあなたの顔が見えなくて、慌てて目許を指先で拭ったら、大粒の涙が指の腹を伝った。ぎゅっときつく眦を擦ると微かな痛みが走る。 それでも視界は透明にならない。あなたの笑顔が見えない。ううん、見えなかったほうが良かったのかも知れない。 ――――――だって僕は、あなたのそんな諦め切った笑い方なんて、見たくはなかった。 胸が詰まって苦しい。痛い切ない哀しい。嗚咽として外へ放り出すことさえ出来ないどろどろでぐちゃぐちゃでどうしようもない想いの渦は胸を埋め尽くしてもまだ足りないと僕の身体中を巡っていく。あなたへの感情は留まるところを知らなくて、どんどん大きくなって膨らんで僕の中一杯に満ちて、今にも溢れ出してしまいそうなくらい、たくさんたくさん心から湧き出てきて、滴り落ちる滴と共に僕を困らせた。違うな、本当はきっともう許容量なんてとっくの昔に超えてしまっていて、だからこの涙は今更僕がどんなに頑張っても止まってはくれないんだ。 潤んだ世界に映るあなたは淡くて儚くて、このまま僕の水に溶けて消えてしまいそうで、僕は更に泣きたくなった。 年を経る度に淡くなってゆくあなたの笑み。優しい優しい。今、温和な眼差しと一緒に降り注ぐあなたの感情は穏やかで柔らかでまるでふわふわの綿菓子みたいに優しく僕を傷付けること無く積もってゆく。ほら、こんな風に。ひらりひらりと舞い降りてゆく。 「俊輔」 静かに名前を呼ぶ、その声が酷く愛惜しくて。僕は、何故だか泣きたくて叫びたくて堪らなくなるんです。 目頭が熱くて声が出なくて弁明なんて言葉にならなくて喉の奥蟠ったものはどんなに頑張っても吐き出せなくて、僕はあなたが目を丸くしてそれからそっと慈しむように眇めるのを、ただ涙に歪んだ視界越しに見つめることしか出来なくて。両の目が塩辛い水に溺れて、あなたの表情が滲んで霞んで。それでも気配で解る。あなたが怒っても戸惑っても居ないこと。 「俊輔」 肩に触れる痩せ細った手のひら。いつの間に、こんなにも小さくなってしまったのだろうか、この手のひらは。以前はもっともっと大きくて、全てを包み込んでしまえそうだとさえ思えたのに。まだ年若い不器用過ぎる僕の手を取って、辛抱強く初歩の初歩から剣術を教えてくれたあなたの手のひらは、こんなにか細くなんて無かったはずなのに。 肉の薄い腕が両肩に回され、決して強制的では無い、けれど逆らえない情の籠った確かな強さで僕の身体を引き寄せる。背中を緩く撫ぜる手は厚みが無くて、固い骨の感触が、した。ぎゅ、と弱いのに振り解けない力で抱き締められる。簡素な、あなたらしい洒落た着流しと羽織りの深い色が視界一杯に広がった。 頭を包み込むようにして僕を抱くあなたの胸はあの頃みたいに逞しくは無くて、病に侵されて肉の削げた薄いものだったけれど、僕の身体を覆い隠すくらいの大きさは保っていて、僕よりも大きな身体はどれだけ僕が成長しても一生懸命走っても追い越せやしないのだ、と。ふと、心に浮かんだ事柄に湧き上がる絶望感。そんなこと気にしたことなんて今まで無かったのに、何故だかそう感じてしまって、今ならば、市ィの気持ちが少しだけ理解出来ると思った。 だって、僕は一生あなたに敵わない。 「俊輔」 あなたは僕の名前だけを囁くように小さな、なのにはっきりとしたよく通る声で呼び続ける。その色の失せた唇から紡がれる言葉は今はきっと僕の名前だけだ。 濃紺の羽織りにさっきまで僕の一部だった水が染み込んで、更に濃い色になる。黒に近い、夜空の色のような青。藍。あお。 涙でぐしゃぐしゃになった顔を促されるままに押し付けたら、涙も鼻水も混じりあった僕の水はあなたの纏う物にゆっくりと吸い込まれていった。あなたの中に吸い込まれていく僕の感情。僕の身体中の水分を外へ出してしまうんじゃないかと思えるくらい、ほろほろと止まらない滴はあなたの薄い皮膚を伝って、あなたの着物に馴染んで溶けてゆく。 あなたの冷えた指先が僕の頬を流れる滴を優しい手付きで拭う。人差し指を濡らしながらあなたの中に染み込んでゆく、僕の涙。 頬を撫で、髪を梳き、僕を抱くあなたの手のひらは痩せ細った頼りないものだったけれど、それでも僕の涙を更に煽る作用は充分に発揮していて、あなたが僕に幼子にするように愛しげに触れる度、僕の名前を低くて甘い情に満ちた声で呼ぶ度に僕の瞳はずきずきと痛む。瞼が腫れぼったくて重たくて、あなたの着物に擦りつけた鼻先がつきんと痛みを訴えた。 視界は歪んだまま、あなたの病的なまでに白い肌によく映える美しい夜色の二色だけで埋め尽くされている。顔を上げるとあなたが柔和な少しだけ苦いものを含んだ笑い方で僕を見つめていた。 その笑い方はさっきと同じ、何処か諦めの滲んだ、何時からかあなたの顔に馴染んでしまった微かに暗い影を落としているもので、その表情は酷く優しいものなのに、僕にはどうしようもなく哀しいものに見えて仕方が無くて、ぎゅっと固く目を瞑った。僕は、僕は。そんな何かを悟ってしまったようなあなたの笑みなんて、知らない。知りたくもない。 涙が、止まらなかった。あなたの上質な肌触りの良い着物は僕の吐き出した感情の欠片でぐしゃぐしゃになってしまっている。泣きじゃくる僕をあなたは柔らかい声音で宥めるように名前を呼びながら、震える背中を優しく何度も何度も繰り返し撫ぜる。その手のひらが温かくて、何故だかホッとした。 「俊輔」 淡い色の唇が形作るのは僕のなまえ。それ以外の何をもあなたは云わなかった。だからこそ、僕はあなたに泣いても良いんだと云われているような気がした。 ようやく、声が出た。心に蟠った想い、あなたに対する感情の全てが言葉としての形を保たない意味の無い嗚咽として吐き出される。咽喉が、焼けるように痛かった。 真っ赤に充血した瞳であなたを見上げたら、ぼやけた視界に映るあなたは穏やかに微笑んでいる。 あなたの肌に伝う滴。視界の中の僕の涙に溺れ、滲んだあなたは僕の嫌いな、それなのに愛惜しくて堪らない笑顔を浮かべている。それを見る度に失望が胸に渦巻いて、激情が湧き上がってきて、泣きたくて叫びたくて堪らなくなる、僕を不安定にさせるあなたの、全てを悟ってしまったが故の慈愛に満ちた笑顔。 「木戸、さん」 「俊輔」 掠れた声で名前を呼べば、優しい声が降ってくる。それだけはあの頃の昔の甘いものと変わらなくて、眦から溢れ出した涙が一筋、滴った。 |