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春の終わりと夏の始まり、雨の季節に挟まれた短い期間。何者にも邪魔されない真っ青な空が広がる日。こんな美しい日には思い出す、この季節に去っていったあの人を。 窓の向こうには明るい太陽に育まれ、しなやかに枝を伸ばし葉を繁らせる木々が立ち並び、道行く人々も僅かに帯びる暑気に額に汗を滲ませている。開いた窓から入り込む風は爽やかでこのどろどろとした世界を浄化するように吹き抜けていく。積み重なった書類の山、まだ中に目を通してもいない書簡、冷め切ったコーヒー。 仕事の疲れからか、それともこの季節があの人を思い出させる為か。背凭れに身体を預け、ぼうっと天井を見上げる。ずっと同じ姿勢を保っていた所為で、肩が凝って仕方が無い。 歳を取ったなあ、と今更な感傷に浸る。もう僕もそんなに若くない。そんな当たり前のこと、再確認するまでもないのに、こんなにも感慨深く思えるのは、あの懐かしい日々を思い返してしまう所為に違いない。そんなに遠い訳じゃない。だってこうして記憶を辿ればすぐに鮮やかに蘇る。閉じた瞼の裏に映る淡い笑み。なのに、今の僕には遥か彼方にしか認められない大きな背中。 がむしゃらに自分が持てる全てで走り抜いてきた。振り返ったところでもう既にあの頃は遠い。外の世界はずらりと建ち並ぶ立派な洋館と洋装姿の官吏ばかり。 あの人が澄んだ瞳で見つめたせかいの上に、僕は今、立てているのだろうか。これまで自分に出来る精一杯をやってきたつもりだけれど、本当に目の前に広がるせかいはあの日あの人が愛した美しさを保てているだろうか。 本当に、疲れているのかも知れない。意味も無く、こんなことを考えてしまうのは。目の前に連なる厄介な仕事仕事仕事、何時の間にか乾いてしまった筆、濁り澱んだ空気。素っ気無い白のコーヒーカップを傾けて、溜息。口内に広がる苦味に、角砂糖をもうひとつ溶かしておくべきだったと中途半端な甘さに眉を顰める。 まだ夏の厳しさを擁していない柔らかな風が茶色い猫っ毛を揺らして、書類を一枚、扉のほうへ連れてゆく。ああ、取りに行かなくては、でもここを離れて動くのも嫌だ。小さなわがままをぽつり、漏らしたとき。 「閣下、失礼しますー」 「ああ、巳代治か。丁度いい、そこの書類ちょっと取ってくれないか」 「え、ちょっと待ってください、今両手塞がってて・・・っと」 耳慣れた声と共に扉が少し開いて、部下の顔が覗く。都合良くその茶色い革靴の足先にさっき風に飛ばされた書類が落ちていたから、半分ほど中身を減らしたコーヒーカップに唇を当てたまま云うと、少し上擦った声で返事が来た。顔を上げて扉のほうを見遣ると、背中で押すようにして扉を開けた巳代治は左手に自分の鞄をもう片方に小さな花瓶を抱えていた。 確かに両手は塞がっている。だが、それよりも目を引いたのは、藍色の美しい硝子瓶に活けられた花のほうだった。 「どうしたんだ、それ」 「これですか? さっきね、そこの角の花屋さんで女の子が売ってたんですよ。もう凄い美少女で、あ、閣下、だからといって手ぇ出しちゃいけませんよー。で、余りにも可愛かったからつい。勧められるままに買っちゃったんですよ」 冗談を交えながら説明する巳代治の手から硝子瓶は机上へと移されていく。書類で埋まった机の上を大雑把に片付け、ようやく見えた重厚な焦げ茶の木目の上へ藍の硝子瓶が置かれる。 巳代治の細い指先が花をより美しくする為に花びらの中へ消えて行き、少し経って手のひらが幾つかの花のかけらを持って出てくる。そうして整えられた小さな花束は窓から差し込む光を跳ね返して、きらきらと輝いていた。 花の名前なんて幾つも知らない。あの人はひとつずつ丁寧に教えてくれたけれど、僕は覚えようとも思わなかった。だから名前は解らない、きっと巳代治も解らないだろう。こんな、何処にでもあるような有り触れた、けれどあの人のように静かに慎ましやかに咲く真っ白な小さな花。 「ね、綺麗でしょう?」 ―――――― ほら、綺麗だろう? 屋敷を訪れて、その姿が部屋に見当たらないとき、あの人は自慢の庭で花と戯れていることが多かった。人の手が加えられているのに自然に思えてしまう木々の繁る庭であの人はひっそりと佇んで、そこにある、そこにただあるだけの草木や花を見つめては、優しく笑んでいた。草花だけじゃない、空、海、山、人。愛するこの国を構成する全て。を、あの人は例えようのない真っ直ぐな瞳で見つめていた。 何の変哲も無い花のひとひらに触れる白い指先。たくさんの花や木に囲まれて、微笑むひと。ひとつひとつ花の名前を呼びながら、その度に僕を振り向いて、微かに小首を傾げて緩く笑う。 「・・・・・・ああ、きれいだ」 にこりと明るく笑う巳代治にふっと頬を緩めて答える。首を回して透明な硝子の向こうを眺める。あの頃とは変わった、でもあの頃と変わらず美しい空を見上げて、何処と無く晴れ晴れとした気持ちで。 窓の外のせかいはあの日とは変わってしまった。けれど、視界に映るせかいはあの日と同じように美しい。あの人が柔らかな笑みを湛えながら、僕にひとつずつ教えてくれたせかい。 あなたが愛したせかいは、今日も綺麗です。そこからも見えていますか。 |