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何の変哲も無い、極普通の朝だった。東から昇る朝日の目映い光は町中に降り注いで、人々は目を覚まし、何時も通りの日常を始める。ざわざわと忙しなくそれぞれの仕事に取り掛かっていく。 本当に当たり前で自然な朝。何時もと何も変わらない、朝。鳥の鳴き声、子ども達のはしゃぐ声、物売りの掛け声、車を引く音。耳に入り込む雑音。けれど、今の私は至極普通なそれら全てを遮りたい気分に駆られている。 外とは打って変わって、室内は外の喧騒など知らん顔で静まり返っていた。畳の上、真っ白な布団に包まれて眠る人の傍で私は嗚咽を零すことさえ出来ずに目を瞠り、拳を握り、唇を戦慄かせる。 今、自分がやらなければいけないことなんて目の前の人に触れたとき、既に理解していた。けれど、それをやってしまうとこの静寂は破られてしまう。たった障子一枚の静けさが乱されてしまう。だから私は咽喉を震わせて声を発することもせず、息を潜め、衣擦れの音も立てず、座っている。長い睫毛を伏せて緩やかな眠りに囚われているこの人をただただ見つめ続けている。 ゆっくりと手を伸ばし、冷えた瞼を辿る。鼻筋、頬、唇、顎。輪郭をなぞるように触れる。肌は病の為か荒れていて唇もかさかさだったけれど、それでもこの人を構成するひとつひとつを確かめるように触れていった。 安らかな表情だった。眠ると子どものようにあどけない表情を晒すこの人らしい、幼さが覗く表情だった。私はそんなこの人の寝顔を眺めるのが好きで、何時だってこの人よりも早く目覚めてはぼうっと見つめていたものだ。ぱさりと落ちる黒髪に触れるとそれはさらりと指の間を通って額にかかる。 何時まででもこうしていたいと思う。それは到底出来ない相談だけれど、それでも最後くらい、二人で居たいと思った。 ほんの少しで良い、二人きりで、いたい。 当たり前の日常が崩れ去る、その前に。当たり前のことをしたい。喧しい外野の声なんて要らない。何時ものように静かな朝に私とこの人と、ふたり。 明日からはきっと何もかもが変わってしまう。だって私のこの十五年をこの人はずっと占めてきた、長い長い年月を二人で、一緒に歩いてきたのだ。だから最期に。ほんの少しで良い、時間を、ください。こうしてこの人の寝顔を眺めるほんの数分。こうして去り行くこの人を慈しむほんの数分。こうして涙を流してそれを乾かすほんの数分。それだけでいい。 こうして、この人に口吻けるほんの数秒、それだけで、いいから。 |
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「あなた」 「ん、どうした? まつ」 解っている、解っているのだ松子にだって。目の前で酷く柔らかな笑みを見せる夫が本当に優しい人だと云うことくらい。こういうことを見過ごせない人だと云うことくらい。 解っていたからこそ、松子は好きになった。傍から見れば馬鹿みたいに優しい人だからこそ、この人を好きだと思った。けれど、先程下女から聞いた話には、さすがの松子も目を丸くする他ない。 「どうしたじゃありません。あなた、その腕の・・・」 「ああ、この子か。この子はね、家の門の前で震えてながら泣いていたから、さすがに哀れと思って・・・」 火鉢のすぐ傍に座り込んで、温かそうな半纏を着せられた赤ん坊を抱いてあやしている木戸を前に松子は疲れた声音で既に答えの解っている疑問を投げた。木戸は赤ん坊に向けていた蕩けるような締まりの無い表情のままに松子のほうを向くと、無骨な指先で赤ん坊の薄く生えた頭髪を撫でながら、説明をした。 30分ほど前から赤ん坊の泣き声が聞こえていたこと、最初は向かいの長屋の子どもかと思っていたが、何分経っても泣き止まない赤ん坊の声にさすがに不安になってきたこと、表に出て確かめてみれば、薄物に包まれた赤ん坊が寒さに凍えながら泣き叫んでいたこと、本来温かいはずの肌までが冷え切っている、親に置き去りにされたであろう赤ん坊を可哀想に思い拾ってきたこと、などを、愛らしい赤ん坊への慈しみと孤独になった赤ん坊への哀れみとを合わせた瞳できゃっきゃっと笑い声を立てる赤ん坊を見つめながら、つらつらと松子に話した。 「でもほら、可愛いだろう?」 「・・・・・・はあ」 ―――――― 呆れた。 最後ににっこりと笑いながらそう告げる木戸に松子は言葉も無かった。ただ桜色の唇から細く長い溜息が漏れてゆく。 木戸のこういうところを松子は良く知っている。だが、例え知っていたとしても、こうして至極柔らかに笑われてしまえば、松子は絆されるしか無いのだ。松子が好きな木戸はこういう人なのだから。 今までだって何時もこうで、結局居候が増えて困るのは家事の一切を取り仕切る松子と下女達になるというのに、こうして大きな溜息を吐きながらも、最後には許してしまうのだ。勝手にあっさりと松子には何の相談も無しに居候を増やす木戸の心底にあるものが、優しさと親切心であるということを松子は知ってしまっているから。 だから最後にはこうして溜息をひとつ吐いて一言。 「まったく、しょうがないわね」 苦笑いを浮かべる松子に木戸は少しだけ申し訳無いような表情を浮かべて赤ん坊を手渡すと、抱くように促した。松子の細腕に抱えられた赤ん坊はにこりと笑って、その小さな小さなてのひらを松子へと伸ばす。その手に人差し指を握らせながら、真ん丸いつぶらな瞳を見返すと、赤ん坊は目を細めて笑い声を上げた。隣で腕の中の赤ん坊を覗き込む木戸と顔を見合わせて、ふふ、と赤ん坊につられるように相好を崩す。頬が緩み、唇が綻ぶ。 二人の火鉢の温もりよりもあたたかな眼差しを受けた赤ん坊は何も知らずに幸せそうに笑う。外はまだ冬の様相を呈していても、ここだけは暦通り、春のように暖かかった。 |