りんどう









 耳元でわざと冷めた感情の無い声で彼の心を切り裂くような言葉を囁けば、彼は酷く悲しげに眉を寄せて唇を噛み締めた。見る見る内に真っ黒な瞳に涙が溜まってゆく。今にも堰を切って溢れ出してしまいそうなそれは彼の心をそのままに映し出す鏡のようなものだ。悲しい時に泣き、嬉しい時に笑み、彼は豊かな感情を素直にその秀麗な顔に浮かべる。
 ほら、もう流れてゆく。ほろほろと頬を伝う涙はそれだけを見れば、何と美しく清澄なのだろう。彼という人間そのものはもっと濁り澱んでいるはずなのに、彼の涙は酷く清らかに私の眼には映る。涙に濡れた頬を拭うことなく、顔を背けてシーツに顔を押し付け、傷付き悲しみ嘆く彼の白い背を見下ろすと同時に心を満たしていく充足感。
 すすり泣く声が静寂に包まれた室内に響き渡る。肩を震わせながら自らを削りながら紡がれるそれは彼の細やかな感性が奏でる旋律で、普段ならば余りに神経質で耳障りに聞こえるそれさえも今は、愛惜しいと感じる。
 無理矢理に顎を掴み、顔を上げさせ覗き込むと、泣き濡れた白い肌は青褪めて唇は色を失っていた。潤んだ瞳からは絶え間なく滴が零れ、肩は痛々しく小刻みに揺れる。噛み締められた唇を親指で開き、優しく口吻ける。見開いた彼の目からほろりと大粒の涙が落ちて、肌を流れる。唇に伝うそれを舐め取ると塩辛い彼の味がした。








2007年4月14日〜10月7日まで拍手に掲載。






ペチュニア









 薄紅色の花びらが春の終わりを告げるかのように舞い踊り、緑の若葉が芽吹き始めた晩春と初夏の合い間。爽やかな風が吹く穏やかな昼下がり。桜田藩邸の一角、聞多に宛がわれた上士用の広い部屋の縁側にごろんと寝転んで、僕はうたたね。まだ強くない柔らかな日差しが僕を包み込むように降り注ぎ、とても心地が好い。
 今日は桂さんは友人のところへ出掛けて夜中まで帰ってこない。だから必然的に従者である僕の仕事も無くなる訳で、今日の僕はとても自由だった。
 聞多は隣で何やら一生懸命書物を書き写している。他藩の友人に借りたものらしい。僕はそれの邪魔をしないように真面目な表情をしている聞多を盗み見ては、寝返りを打つ。
 とても静かだった。何時もの賑やかさとか忙しなさとかそんなものから隔離された空間は僕にはとても珍しくて、けれどこれも悪くないな、と思う。聞多の傍へ近付くように、ごろんと再び寝返りを打って、ゆるゆると睫毛を伏せる。聞多の隣は僕の特等席だ。聞多の隣なら静かでも賑やかでも僕は楽しくて嬉しくて堪らない。
 例えばこんな穏やか過ぎる何の変哲も無い日常の片隅でもこんな何でもない静か過ぎる午後の空間でも聞多の隣なら何かが違って見える。聞多が筆を走らせる音、巻物を広げる音、少し動く度に響く衣擦れの音。ほんの些細な当たり前な日常によって紡がれていく音。それさえも聞多の一部で僕はそれを酷く、素敵だと感じる。
 目を瞑って、瞼越しの目映い光と奏でられる音を頼りに脳裏に描き出す聞多の姿。眠気に襲い掛かられている僕の描いた聞多はゆっくりと徐々に霞んで、とろとろと一緒に微睡みの中へ落ちてゆく。遠ざかっていく思考を引き止めるように微かに聞多の声が聞こえた気がしたけれど、暖かな陽だまりに包まれて夢心地だった僕はそのまま、日が翳るまで睡魔に囚われていたのだった。








2007年4月14日〜10月7日まで拍手に掲載。






梔子









「まつ、ほら、お昼」

 障子が開く音に松子は僅かに首を回し、庭の何の変哲も無い景色に向けていた視線を部屋に入ってきた人物へと投げた。両手で大きなお盆を抱えてやってきた木戸は障子を閉める余裕も無いらしく、そのまま松子の枕元へとやってきた。畳の上に盆を置き、障子を閉めに戻る。
 松子が最近東京中で流行っている性質の悪い風邪にかかったのが解ったのは今朝のことだった。高熱を出して布団から出られなくなった松子に木戸は常に無いくらい甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。元々松子は身体が丈夫で病にかかるのは専ら木戸のほうだったから、こんな風に松子が病に臥せっていることは珍しい。木戸は何時も元気な松子が床に臥せっていることに柄にも無く慌てているのかも知れなかった。
 枕元には氷の浮かんだ冷水に満ちた手桶に医者から処方された薬などが雑多に散らばっている。そこに湯気の立つお粥が入った小さな土鍋と匙、小さな碗に水の入った湯呑みなど、一式が載ったお盆が加えられた。
 木戸はにこりと笑って、土鍋の蓋を取ると中身を碗へと注いで行く。それを横目に松子はゆっくりと熱に侵された重たい身体を起こした。身体がだるくて仕方が無い。風邪とはこんなにも辛いものだったか、と遠い記憶を探ってみるものの、過去にここまで辛い病にかかった覚えは無く、まったく参考にならなかった。僅かに咳き込めば、手に持った碗と匙を置いて、背中を擦ってくれる。大丈夫かと心配そうに覗き込む瞳。その揺れる色に過去、こんなにまで優しくされたことがあっただろうかとふと考える。多分、無い。ああ、これはちゃんと答えが見つかった。
 今までこんなにまで優しくされたことなんてきっと無い。

「わたしが作ったんだが、食べられなくは無い、と思う。味見はしたし。お花さんも美味しいって云ってくれたし」

 自信無さげに卵粥の入った匙を差し出してくる木戸に松子はくすりと思わず笑ってしまう。脳裏に台所で下女と共にあたふたしている姿が浮かんでくる。家事なんてまともにしたことが無いはずだ。包丁を持ったことさえないに違いない。それでも自分の為に不得手な料理を作ってくれる、そのことが酷く嬉しかった。匙を持つ指先が薄く切り傷が刻まれ、火傷に赤く腫れているのに気付いて、更に松子の胸は熱くなる。
 ふうふうと湯気が立ち昇るそれに息を吹きかけて冷ましてから、木戸は松子の口許へ匙を運ぶ。まだ熱いそれを一口、口に含む。確かに食べられなくは無かった。お粥というには煮詰めすぎていてどろどろで卵もかき混ぜるのが遅かったのか固まったままで塩を入れすぎたのかしょっぱ過ぎる。でも。

「おいしい」

 吐息のようにか細い声でそう呟けば、パッと表情を明るくして笑う。飲み込んだ粥は熱に浮かされた咽喉をもっと熱くしていく。頬が赤いのはきっと熱の所為だけじゃなくて。
 匙が碗の中へ入り込み、粥を掬い上げる。白い湯気を吹き飛ばそうと唇を尖らせるその仕草も期待に満ちた笑みも優しく髪を撫ぜる怪我だらけの無骨な指先も、今は全て松子の為だけに有る。
 丁寧に零さないよう、細心の注意を払いながら口許まで匙が運ばれる。熱い粥に舌を火傷しそうになりながら、それをゆっくりと咀嚼して、松子は去ってゆく傷付いた指先を匙ごと力の入らない手のひらで包むように握った。冷えた肌の感触が心地好かった。熱の篭った手は冷たい木戸の指先に少しずつ体温を移してゆく。
 突然の出来事に疑問符を浮かべ、碗を片手に固まる木戸に松子は疲れた身体をもたせかけた。支え切れない体重を預けると碗を盆の上へ置いた木戸の慌てた腕に受け止められる。弱った身体を確かに受け止め、支えてくれる腕があることに泣きたくなるような安堵を覚えた。
 見上げた先には戸惑ったような緩い笑み。困った風な、それでいていとおしげな。秀麗な顔を時折掠める特有のそれが松子は好きだった。

「あなた、」
「ん?」

 きゅ、と握り締めた手は出逢った頃から変わらない。筋張った無骨な指先に刻まれた細い切り傷と軽い火傷の跡を辿りながら、小さく首を傾げる人へ一生懸命に唇を動かして、心に満ちた想いをそのままに紡ぎ出す。
 ようやく一緒になれた。正式に夫婦だと認められて、ずっとこの人の隣に居る権利を得たのだと思った。遠く離れて駆け回る人をやっと傍に居て支えてあげられるのだと。けれど、長い間望んでいたそこは幸せだけを運んでくれる訳では無く、当然多くの不安や苦痛も伴った。慣れない東京。知らない人。解らない慣習。所詮芸妓上がり、と嘲笑われることだって。その度に気丈に突っ撥ねて来たけれど、前向きに考えてきたけれど、たまに落ち込んでしまうことだって勿論、有る。この人の帰ってこない夜、思考の渦に巻き込まれて少し後悔をしたりもした。けれど。
 そんなのきっと凄く些細なことだ。こうやって視界に大好きな笑みを浮かべたこの人がずっと映り込んでくれるのなら。きっとそんなもの、とてもちっぽけなもの。だから松子は静かに笑みながら、薄く唇を開く。

「わたし、しあわせだわ」

こうして貴方の傍に居られること。この国で一番に幸福だと皆に誇れるくらいに。








2007年4月14日〜10月7日まで拍手に掲載。