こども日和









「木戸さん、ちょっと起きてください!」
「ん・・・何・・・」

 僅かに切り取られた窓から燦々と白い陽射しが差し込む心地よい春の朝である。暖かな陽だまりの中で疲れた身体を癒すために惰眠を貪っていた木戸は耳元に響く幼い声に長い睫毛を震わせて、目をぱちぱちと瞬かせた。
 頭がぼーっとしている。未だ幾らか寝惚けているようだ。かなり遅くまで褥と共にしていたから、まだ睡眠が足りない気までする。それでも窓枠の向こうに輝く太陽は既に空高く昇っており、恐らく九時は過ぎていると簡単に推測できた。
 ゆさゆさと小さな手に身体を揺さぶられる。その弱い力と耳元で以前響き続ける声にふと木戸の脳内に疑問が浮かぶ。
 甲高い幼い声。ここが自宅ならば好子がまつに云われて起こしに来たのだろうかと思うのだが、ここは料亭のはずである。しかも、離れを貸し切っていたはずだ。それなのに、どうしてこんなに可愛らしい声がここでするのだろう。まるで、子どもがいるような。ここには自分と相手のふたりしか居ないはずなのに。
 疑問を解消させるために、声のするほうへと首を回し振り向いた。視界に映った衝撃の事柄に自然と目が点になる。

「・・・きみは、だれ?」
「私です、大久保です」

 しばらくの間、目を凝らし相手をじっと見つめ、渇いた唇がようやく紡ぎ出せたのはそれだけだった。即座に自分の名を伝える幼い桃色をしたくちびる。
 どう考えても十歳に満たない、七、八歳くらいの子どもが、そこには居た。
 愛くるしい黒い瞳を見開いて、一生懸命に木戸に自分のことを教えようとするその表情は必死で、思わず大丈夫だから心配するなと抱きしめてやりたくなる。だが、目の前にいる愛らしい子どもに対する慈愛の情とは別に木戸の頭を支配していたのは、子どもが紡いだ名前。
 一瞬、頭が真っ白になった。次いで頭がそれだけに占領された。意味が解らなくて、それを理解しようとすればするほど、頭が混乱してぐるぐるかき回されて、余計に意味が解らなくなった。
 大久保はもっと大人だし、こんなに可愛らしくなんてない(些細な仕草を可愛いと個人的に(惚れた弱味で)思うことはあるけれど、こんな誰が見たって猫可愛がりしたくなるような愛くるしさは持っていない)  大体、昨日自分を抱いた男がこんなに小さくなってしまうなんて有り得ない。どうやったらこんな風になるのか一体全体意味が解らない。

「大久保さんはもっと大人だし、背も高いし、こんな可愛くないし、声だって低くって・・・・・・、君は誰? この料亭の子どもなの? それとも何処かから紛れ込んできたのかな?」
「ですから、私です。大久保利通です」

 混乱した状態のまま、口々に大久保と子どもとの違うところを述べていく。そして結局行き当たったのは、これが大久保な訳が無い、という当然ながら事実に反する回答だった。
 人好きのする笑みを浮かべて口調を柔らかくして子どもに対する態度を作り、話しかける木戸に子どもはあくまで冷静に、けれど必死の表情で自分の名前を連呼する。それでも木戸は子どもが大久保だとは認められず、小首を傾げて子どもの髪を撫でながら、名前と何処から来たのかを問うた。

「信じてくださらないのは結構ですが私が大久保である事実は変わりません。それに生憎この名前以外持ち合わせていませんので、貴方が望むお名前はお答え出来ません」

 形の良い眉を寄せてしかめっ面をして反論していても、この姿では威厳も迫力も何も無い。ただ可愛らしいだけである。大久保が真面目な顔をして薄紅色の唇を尖らせるのに、木戸は可笑しくなってついつい唇を綻ばせて、笑ってしまった。これがあの何時も冷淡で生真面目な大久保だと思うと、余計に笑いは込み上げてくる。
 木戸のくすくすという笑い声にぶすっと拗ねた雰囲気を醸し出す大久保。その表情に更に笑いは溢れ出て、しばらく経っても木戸の笑いは止まらず、朝の爽やかな空気に馴染むように明るい声が響いた。

「そんなに笑わなくても良いでしょうに。何が可笑しいのですか」
「だって・・・、大久保さんなのに、大久保さんなのにかわいいんですよ、もう、凄い可笑しい。やっぱりこんなにかわいい大久保さんは大久保さんじゃないですよ」

 眦に涙まで滲ませて笑う木戸をじとっと睨みつけ訊ねてみても、大久保にとっては意味の解らない返事が返ってくるだけだった。木戸はにこりと大久保には滅多に見せてくれない綺麗な極上の笑顔を浮かべ、大久保の随分と小さくなった手を取りその幼い身体を引き寄せ腕の中に収めると、頭を優しく撫ぜ、慈しむように髪を梳いた。
 大久保には木戸の行動が理解出来なかったけれど、子どもにするように扱われるのが不愉快で(実際、容姿は子どもなのだが)、木戸の手を不機嫌そうに払った。
 それがまた木戸の心を擽ることなど大久保には知る由も無い。何時の頃だったか、もう正確な日にちが思い出せないくらい昔、木戸は―――桂はこうやってまだ小さな幼馴染を甘やかしていた。素直じゃない子どもくらい、木戸が愛惜しいと思うものは無い。甥っ子達が素直過ぎるのが実はちょっぴり不満だったりするのだ。尤も、それはそれで可愛らしいとも思うのだが。

「でも、かわいい。もういっそ、ずっとこのままなら良いのに」

 指の間を通る髪の毛の感触がもう既に傍に居ない幼馴染とは違う。甥っ子達とも違う。けれど、この感触も良いものだと木戸は思う。そう、この少しパサついた髪質さえも、愛惜しい。
 顔を顰めて木戸を見上げる大久保に柔らかな慈愛に満ちた表情で笑いかける。唇から零れた言葉は半分本気だった。このまま、大久保じゃない大久保と一緒に居られたなら。薩摩の長である大久保じゃない、ただの少し素直じゃない可愛らしいだけの子どもである大久保とこのまま朝日に染められた部屋の中、共に居られたなら。
 無理だからこその本音。そしてそれを大久保が必ず否定してくれると解っているからこそ紡ぎ出せる、心の奥に秘めた想い。きっと大久保は冗談だと受け取ってくれるだろうと、解っていての。
 ――――――何も持たない生身のあなたとわたしだけで接することが出来たなら、一緒に傍に居られたなら。

「そんなことになったら困ります。仕事が滞って仕方が無いでしょう」
「解ってますよ、それくらい。それに大久保さんはもっと憎たらしくなきゃ。こんな可愛いだけの大久保さんじゃわたしの好きな大久保さんじゃないですから」

 予想した通りの言葉が返ってきて、木戸はふふ、と笑った。生真面目で面白味の無い何時もと変わらない表情。でもそれもまた大久保らしいと思えて、しかもこんなところまで好きだったりするのだからまったく始末に終えない。存外に恋心というものは厄介なものである。
 自然に浮かぶ笑みをそのままに秀でた額に触れる。子ども特有の滑らかな肌が心地良い。前髪を梳くように指を差し入れれば、大久保の小さな手がそれを阻止しようと掴んだ。

「解っているのなら、その手を退けてくれませんか」
「そんなに急がなくたって良いでしょう。こんなこと、滅多に無いのだから少しくらい楽しみませんか。わたしはこんなにかわいい大久保さんが見れて幸せです」
「そう頻繁に起こって貰っては仕事が進みません。大体、楽しんでいる暇があるなら、元に戻る方法を見つけないと」

 細い指先が大人の筋張った人差し指と中指に絡み、動きを止める。けれど、その幼い手は木戸のもうひとつの手で掴まれ外されて、大久保の頭を撫ぜるという行為はあっさりと再開された。
 明るい花のような笑い方で素直な気持ちを告げる木戸に大久保は不満げに唇を尖らせた。それでももう木戸の手を止めようとは思わないらしく、大人しく為すがままになっている。木戸の腕の中で陽だまりに包まれて、大久保は不機嫌そうに眉を寄せる。ぎゅうと抱き締めてくる腕が本当は厭わしくてならなかったが振り払おうという気にもならず、ふうと諦めの滲んだ小さな溜息を落としつつ、思った言葉をそのまま口にした。大久保の科白に木戸は少し思案するように小首を傾げ、そして大久保の顔を上から覗き込むと、その幼い真ん丸い黒い瞳を真剣な眼差しでじっと見つめて、降り注ぐ柔らかな春の陽射しのような穏やかな微笑みを唇に乗せた。

「それなら、太陽が沈み切ってしまうまで、それまでの時間をわたしにください」
「今日一日、付き合えということですか?」
「そう取って貰って構いません。どうせこのままでは仕事なんて出来ないでしょう?」

 木戸の回りくどい云い方に慣れてしまった大久保は言葉の意味を確かめるように問い返す。木戸は大久保の高い声ににっこりと茶目っ気を含ませた笑みで答えた。
 はあ、と桜色の唇から吐息が漏れる。けれど反論する気になれないのは木戸の云うことが(一部だけれど)至極正しいからだった。実際、このままで仕事なんて出来そうに無い。そもそもこの姿では出仕することも出来ないだろう。他の官僚達に知られて動揺させるのは不味い。伊藤に書類を運ばせ自宅で仕事をするのが一番な良い方法である気もするが、この木戸の満面の笑みを前に首を横に振れるほど大久保は怖いもの知らずでは無かった。

「仕方が無いですね。伊藤君に連絡して今日の分の仕事を回して貰います」
「じゃあ今日一日、大久保さんは大久保さんの親戚の子どもの利君ということで。今日は何をしましょうか? 利君?」

 大きな大きな疲れと諦めを含んだ溜息を交えつつ話す大久保に木戸はパッと明るい蕩けそうなくらい極上の微笑みを浮かべてみせた。今日一日は離さないとでも云いたげに大久保の身体に巻きついた腕に込められた力が強くなる。一度決意してしまえばその拘束さえも不快ではないと思えるのだから、不思議なものだ。
 大久保の瞳をじいっと見つめて子どもに対するみたいに優しい声音で自分の考えた名前を呼ぶ木戸に大久保は心の中でひとつ吐息を落とす。

「あなたのお好きなように」

 そして愛らしい子どもの顔には到底似合わない大人びた苦い笑みで木戸の顔を見、自分の一日の時間を木戸に託すことを告げたのだった。








2007年1月29日の日記より。






おかえりなさい









 ふいに響いた音に淡々と本を捲っては線を引き、重要部分をノートに書き写すという作業を繰り返していた大久保は整然と並んだ筆記用具の合い間で震える携帯に目を留めた。マナーモードにしている為に普段聞き慣れた着信音ではなく、ぶるぶると機体を揺らすという所作で誰かから電話が来ていることを知らせてくれている。画面を覗き込み、誰からの電話なのかを確かめる。光る画面に映った名前は着信、送信履歴双方をかなりの確率で占める同居人、木戸のものだった。
 ぱちん、と携帯電話を開き、通話ボタンを押す。瞬時に相手と繋がる小さな機械を耳元に押し当てると極近い距離から木戸の声が聞こえた。

「どうかしましたか?」
「あ、大久保さん? 悪いんですが、ひとつ頼みごとがありまして」

 通常通りの木戸の声である。だが、ほんの少し、普段なら気付かない程度の微かな、けれど電話という耳だけに神経を集中させる行為をしているから解ってしまう上擦った声だった。遠くでぐつぐつと何かが煮える音がする。夕飯を作っているのだろう、ということは。躊躇いがちに問いかけてくる木戸に大久保は次の言葉を察した科白を返した。

「今度は何を買って帰れば良いんです?」
「和風ドレッシングと葱と・・・あ、トイレットペーパーも」
「そういや切れてましたっけ」
「ああ、後、お菓子とジュースもお願いします。明日、晋作達が来るってさっき電話が来て」

 申し訳無さそうに買い残した品物の名をつらつらと並べていく。だが、改善された例が無いのだ。既に日常茶飯事を通り越して、日常と化している。
 木戸の言葉にそう云えば、トイレットペーパーだけでなくティッシュペーパーも後一箱で切れるんじゃなかったか、と日用品の自宅在庫を思い起こしていた大久保の耳に明るい若干はしゃいだ風な声が届いた。
 耳に残る名前に知らず知らずの内に眉間に皺が寄っていく。先程とは打って変わって楽しげな声音に馬鹿らしいと思いながらも携帯電話を握る手に力が篭った。
 高杉晋作、という大久保よりも幾つか年下の男のことを大久保は余り好きではない。というか、そもそも木戸が招く長州の人間達自体を大久保は余り好ましく思っていない。個々を見、接してみればそれなりに見所のある人物達なのだろうが(実際、初めは敬遠していた伊藤なども接してみれば気の利く男だった)、彼らが集まって行う酒宴は喧しくて敵わない。
 木戸はそんな騒がしい雰囲気を好むようだが、大久保は静かな空間のほうが好きだ。だから彼らがやってくるととてもじゃないが落ち着いて心休めることなど出来ない。そんな大久保のことを考えてか、木戸も彼らの頼みを断るようにしているのは大久保も知っている。けれど、どうしても木戸の性分の後輩に甘いというところが出てしまい、最終的には断れないのだということも。
 殊に木戸は後輩であり幼馴染でもあるという高杉に甘い。それが大久保には気に入らない。散らかすだけ散らかして帰っていく彼らの残したビールやチューハイの缶の後始末をしながら、それでも木戸は心底幸せそうに、大久保にも見せない柔らかな表情で微笑むのだ。晋作、と慣れ親しんだ名前を呼ぶ声音も常とは違って聞こえる。
 ただでさえ煩いということで好印象など持っていないというのにこれでは大久保の中の高杉の印象が悪くなるのも当然の帰結だった。半分は自分の知らない木戸を知っている相手に対する嫉妬心である。

「お酒は買って帰らなくて良いんですか?」
「それはいいです。それくらい、持って来るでしょう。というか、そこまで用意してやる必要無いですから。さっきのジュースだって市ィ達の為ですし」
「なら良いんですが。じゃあそれだけで良いんですね?」

 けれど、心の中を渦巻く様相など微塵も表に出さず、大久保は平静とした声で気遣うような科白さえ投げかける。大久保の言葉に木戸はきっぱりと言い切った。何処か苦笑じみた雰囲気を纏うそれに大久保は内心面白くないと思いながら、あっさりとした返答をした。確かめるように木戸に訊ねかける。

「ええ。頼みます。勉強の邪魔してすいません」
「いいえ。それより今晩のメニューは何ですか?」
「えーっと、肉じゃがと秋刀魚の塩焼きと水菜と大根のサラダにお味噌汁です。あ、ご飯は炊き込みご飯ですよ。こないだね、大久保さんの実家から送られてきたさつまいも、ふかして混ぜてみたんです。甘くって美味しいですよ」
「それは楽しみだ。後、30分くらいで帰りますね。もう図書館も閉まりますし」
「じゃあその頃には食べれるように仕度して待ってますね」

 電話越しに連ねられてゆくメニューは木戸が好む純和風の素朴な料理達だった。きっと彼の目の前には現在調理途中のそれらが並べられているのだろう。小さな食卓の上で作った主の几帳面な性格を表すように丁寧に盛り付けられたそれらがほかほかと湯気を立てている様を想像して、大久保は我知らず唇に薄い笑みを乗せる。
 帰宅時間を告げると木戸は明るい笑みを滲ませた声で返答する。そして最後にあ、という慌てた様子の声を残して、通話は切れた。
 ツーツーと無機質な音が耳に入ってくる。大久保はもう繋がっていない携帯電話の画面を見、通話画面を閉じるとぱちん、とそれを折り畳み、鞄に仕舞った。タイミングよく閉館案内が流される。開いていたノートを閉じ、本に栞を挟み、筆記用具をペンケースに片付け、全て鞄に入れた大久保は席を立ち、足早に図書館を去る。
 辺りはもうすっかり暗くなり、街燈と店内の電燈の僅かな灯りのみが帰路を辿る人々を照らしていた。木枯らしが吹き荒ぶ晩秋の、初冬間近な商店街は何処か哀愁に満ちた、早く自宅に帰らなければならないと、そう思わせるような―――雰囲気を漂わせていて、大久保ははあと白い息を吐きながら、石畳に包まれた道を少し早足で歩いた。この寒さがそんな気分を思い起こさせるのかも知れない。
 手袋を忘れてしまったために悴む指先を擦り合わせ温めながら、大久保は玄関のドアを開けたとき、真っ先に出迎えてくれるあたたかな笑顔を思った。何時の間にか馴染んでしまった二人で暮らすという日常。こうして出迎えて貰うのも反対に相手を出迎えるのももう慣れた日常茶飯事で。こうしてしっかりしているようで意外とうっかりしている木戸の頼みを聞いて、商店街の端にあるこじんまりとしたスーパーマーケットに帰り際に寄るのもまた当たり前になってしまっていて。それをふと思うとき、胸に訪れる穏やかな感情を何と形容したら良いのだろう。
 コートの前を掻き合わせ、煌々とした光を外へ漏らすスーパーマーケットの自動ドアを潜り、木戸に云われた通りのものを探す為に野菜売り場へ向かいながら、大久保はふとデザート売り場に寄って木戸の好きなプリンでも買って帰ってやろうかとそんなことを考えたのだった。








2007年3月11日の日記より。






メインディッシュにゃ




まだ早い









 ことことこと、と何かを煮込んでいる音と一緒に美味しそうな匂いが漂ってくる。とんとんと野菜を切る包丁の規則正しい音も耳に心地好い。
 僕は、夕方のこのときが好きだ。毎日一緒に居るわけでは無いし、夕飯をこうして聞多に作って貰って共に食べるというのもまた週に何度かある程度なのだけれど、だからこそ僕はこの何処か懐かしい匂いのする時間をとても大切だと思う。
 キッチンの前のテーブルに参考書とノートを広げて、勉強をしているふりをして、僕が見ているのは聞多のエプロンの後姿。自分の特技だと断言している料理を作っているときの聞多は酷く楽しそうで、ただでさえ喜怒哀楽が激しく動き易い表情がくるくると目まぐるしく変わっていく。その一分一秒も見逃せない横顔の変化を眺めていると聞多の新しい一面が見れているような気がして、何だかとても嬉しくなる。
 聞多は僕がボーっとその後姿と垣間見える横顔を覗き見ている間にも手馴れた無駄のない動きで今日のメニューであるポテトサラダとビーフシチューを仕上げていく。
 ふいに聞多がその手を止めて、僕のほうを振り向いた。僕は慌てて手に握ったまま未だ一行も文字を書き出していなかったシャープペンシルの先をノートへと向ける。可愛らしい模様が描かれた小皿(雑貨屋で僕が思わず購入してしまったものだ)を片手に聞多は偽りの勉学を進める僕に明るい声をかけ、その手の小皿を差し出した。

「俊輔。味見頼んだ」
「うん、いいよ」

 しっかりと煮込まれたビーフシチューに満たされた小皿を受け取って、口許まで運ぶ。湯気の立つ熱いそれをふうふうと息で冷ましながら、少し口に含んだ。濃厚な味が口の中に広がる。僕としては今ひとつ物足りない気がしたのだけれど、それでも充分に美味しい。聞多の料理の腕は特技だと云うだけあって確かなものだ。カレーをルーの裏面に載っている簡易レシピに沿って作っても何故か失敗してしまう、壊滅的な腕を持つ僕がそんな聞多に云える言葉なんて何も無い。
 もう一度、小皿に口を付け、まだ半分ほど残っている茶色い大分温くなったそれを全て咽喉に流し込む。舌で吟味するように転がした後、唇だけ動かして、やっぱり美味しい、と呟いた。

「美味しい」
「そうか? なら良かった」

 小皿を聞多の湿った手に戻して、湧き出る感想のままに笑みを乗せて答えたら、満面の笑みが返ってくる。聞多の笑い方はその人となりを忍ばせるように明るくて豪快で、それでいてとても優しい。目を細めて頬を緩めて唇を歪めて、顔全体でその喜びを素直に真っ直ぐに表現する、僕はそんな聞多の笑顔が何よりも好きだ。
 処世術としての人を不快にさせない程度の柔い微笑みが定番となってしまった僕には(勿論、ちゃんと感情を表す術も忘れてはいないけれど)、その笑みは酷く眩しくて、きらきらと輝いて見える。白熱灯の下なのに太陽の光を浴びているみたいに目映くて、僕は目蓋をぱちぱちと何度か瞬かせた。

「そろそろ出来るから皿とかコップとか出してくれな」

 そう云い残してキッチンへと戻っていく聞多の後姿を見つめながら、小さく吐息を落とす。意味なんて無い、強いて云うならこの穏やかな時間が終わってしまうことへのほんの少しの落胆。けれど、その微かな吐息は辺りを漂う美味しそうな匂いに紛れ、溶けて消えた。そう本番はここからなのだ。食卓に並ぶ料理を思い浮かべると自然、口許を綻んだ。そして、それと共に見れるであろう、さっきのが比じゃないくらい、とっても素敵な聞多の笑顔を。
 期待に満ちた胸にその明るい笑みを描いたら、柄にも無く頬が熱くなって、くすりと笑い声を零す。忙しなく最後の盛り付けにかかる聞多のエプロンの背中を眺め、僕もまた手許の参考書とノート、出しっ放しの筆記用具の片付けに取り掛かったのだった。








2007年3月17日の日記より。