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「今日は機嫌が良いみたいですね」 「そうですか?」 書き物をする手をふと止めて大久保は窓の外を見遣る木戸に視線を投げた。ついさっき、書類を手ずから届けに来た木戸はそのまま大久保の部屋に居座って、窓枠に手をつき、何の変哲も無い景色を眺めている。 それだけならば、大久保も無視しているつもりだったのだが、ちらりと視界に入った横顔が妙に楽しげに見え、その上、多少調子のずれた鼻歌まで唄い出す始末だ。さすがの大久保も奇妙だと感じた。普段は気難しそうに顰められた柳眉も不機嫌そうにきゅっと引き結ばれた唇も今は綻び、まるでつい先日開花したばかりの桜のように、花開いている。 僅かに驚いた調子を持った大久保の声に木戸はふわりと笑って振り向く。なんて珍しい。あの木戸が惜しみなく笑みを披露してくれるなんて。何時もならば、わざわざ顰めっ面を作って見せるのに。 「ええ、鼻歌なんて唄って。何か良いことでもありましたか?」 筆を置いて訊ねかければ、木戸は小首を傾げて、そうですね、別に特別に云うほどのことは無いのですが、と前置きをして、大久保にはまったく意味の解らないことをあっさりと何でもないことのように云った。 「我が家にも春が来まして」 すいっと視線がようやく暖かくなってきた街へと注がれ、ゆっくりと睫毛が伏せられる。それでも口許は綻んだまま、弧を描いたままだ。 大久保はどれだけ考え巡らせても解らない抽象的な答えに首を捻りながら、木戸の顔をまじまじと見つめてしまった。だから瞼に隠された瞳が姿を現して、木戸がこちらを向いたとき、かっちりと視線が合った。木戸の瞳がきらりと茶目っ気を含んだ輝きを見せる。 「でも、そういうあなたこそ」 「え?」 緩んだ唇から紡ぎ出される声に少し目を丸くして疑問符を放てば、木戸はじいっと大久保を見つめ、くすりと笑い声を零す。 最近富に聞くことが少なくなった明るい声が春の麗かな陽射しに包まれた部屋に響く。庁舎の庭に植えられた桜の花が急に吹いた東風に花びらを散らしていく。 「機嫌良さそうですね。まったく何時もの仏頂面は何処へ行ってしまったんでしょうねえ?」 大久保の表情を下から覗き込み、にっこりと微笑む木戸。窓から吹き込む温もりを含んだ風が木戸の黒い髪を揺らして、大久保の頬を撫ぜる。春の風は優しく、その空気は自然と笑みを刻ませてしまうまでに明るい。木戸にからかうように告げられた事柄に大久保は驚いた風に目を軽く見開いて、自分の頬に触れ、それから彼にしては珍しく声を上げて笑った。 |
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「あなたなんか嫌いだ」 「ですが・・・私は、愛していますよ」 どんなに口だけで否定してもこの状況じゃ意味を成さないことは百も承知。それでも否定し続けるのは一重に意地と自尊心の問題である。それを相手も解っているから、彼は何時もと変わらない冷たい笑みを浮かべて、わたしの頬に触れ、心にも無い言葉を放つのだ。そうすることでわたしが嫌がることを解っているのに云うのだから、嫌味以外の何物でもない。けれど、わたしはそれを甘んじて受け入れて笑う。 それはわたし達の儀式であり、意味の無い意思確認。互いに互いを少なからず思っていることを示す為の。 そうしてわたし達は口吻けを交わす。言葉では押し隠してしまえる感情を相手に伝えたいと、すぐに薄れてゆく淡い熱を離さないとでも云うように舌を絡める。言葉に出来ない想いが少しでも相手に流れ込めばいいとささやかな願いを水音に紛れさせるのだ。 |